屋敷の大広間は、今夜も光に満ちていた。

壁には煌びやかなシャンデリアが吊り下げられ、鏡面仕上げの床には貴族や紳士淑女の影がいくつも揺れている。

香水とワインの甘い匂いが渦を巻き、子どもにとっては少し息苦しい空気だった。

「こちらが我が子、テリュースだ」

父の低い声に背中を押され、少年は客人たちの前に立った。まだ十歳。背筋を無理やり伸ばし、目だけは伏せたまま。

「まあ、なんとご立派に」

「将来はきっと立派な紳士に」

「さすがグランチェスター卿のお血筋だ」

笑顔。拍手。

けれど、声も視線も心からのものではない。

少年の耳には、どれもが空洞の響きとして届いた。

父は満足そうにうなずき、隣に立つ継母も社交的な笑みを崩さない。

だがテリィには、二人の瞳が自分を見ていないことがわかっていた。

その先に映っているのは——幼い弟ジョージ。

跡取りとして、すでに大人たちの未来を一身に背負わされている幼子だった。

「ご子息、お顔立ちが本当に整っていらして」

「学業のほうもお優秀とか」

褒め言葉が次々と降り注ぐ。

少年は無言のまま、形だけの笑みを浮かべた。

口元を引きつらせながら、心の奥では声にならない叫びが渦巻いていた。

——これは俺の笑顔じゃない。

——誰も、俺の本当を見ていない。


夜が更け、宴が終わったあと。

テリィは自室に戻り、鏡の前に立った。

映っていたのは、社交の場で大人たちに見せたのと同じ笑顔。

引きつり、冷め、どこか他人のもののように見える顔。

「こんな顔……俺じゃない」

呟きは、自分にしか聞こえなかった。

鏡の向こうの少年の瞳は、まだ幼さを残しながらも、深い孤独を宿していた。

屋敷の光の中にいながら、彼の心はすでに闇の奥で叫んでいた。

やがて、その声は舞台の上でこそ響かせるものになるのだと、彼はまだ知らない。



初夏の陽射しが、磨かれた窓から差し込んでいた。

グランチェスター家の庭は、この日も来客で賑わっていた。白い天幕の下で紅茶が配され、色鮮やかなドレスの婦人たちが談笑している。

彼女たちの視線の先には、乳母の膝に座る幼い少年——ジョージがいた。

まだ四歳。柔らかな頬に笑みを浮かべると、婦人たちは一斉に歓声を上げた。

「まあ、なんと愛らしい」

「やはり正妻のお子は違いますわね」

「将来のグランチェスター卿、間違いありません」

ふくよかな継母に似た顔立ちは決して整っているとは言えなかった。

だが、その欠点すら「愛嬌」として語られた。

婦人たちは笑みを絶やさず、次々にお世辞を重ねる。

廊下の陰からその光景を見つめる少年がひとり。テリュース・グランチェスター。十歳。

母はアメリカ人の女優、エレノア・ベーカー。父は公爵閣下。

無論、母のことは絶対的な秘密だ。


かつて男子が他にいなかったとき、彼は一度は「跡取り候補」として屋敷に引き取られた。

だが今や状況は変わっていた。正妻の子ジョージが生まれたことで、彼の立場は失われた。

跡継ぎは弟。

その事実を、社交界の誰もが知っていた。

婦人のひとりが「お父上そっくりね」と口にしたとき、テリュースの胸はひりつくように痛んだ。

——そっくりなのは俺だ。

自分のこの顔こそが父に似ている。

だが、それを認める声はここにはない。

拳を握り、奥歯を噛みしめた。

「……くだらない」

喉の奥で吐き捨てる。

そのときだった。

膝の上のジョージが、ふと兄に気づいた。

きょとんとした瞳でこちらを見つめ、小さな手を差し伸べる。

「……にいさま」

舌足らずな呼びかけ。

テリュースは一瞬、心が揺らぐのを感じた。

弟に罪はない。彼はただ無邪気に笑っているだけだ。

だがすぐに、乳母が「お坊ちゃま、いけません」と手を引き戻す。

周囲の婦人たちはその一幕を見なかったかのように紅茶を口にし、会話を続けた。

光の中心にいる弟と、陰に立ち尽くす自分。

血筋では同じ父を持つのに、立場は天と地ほど違う。

テリュースは背を向けた。

弟の声が追いかけてきた。

振り返らなかった。

胸の奥に広がるのは、愛おしさと疎外感がせめぎ合う苦い感情。

それが少年の心に深い影を落とし、やがて反骨の炎へと変わっていくことを、このときはまだ誰も知らなかった。