冬のロンドン、クリスマス。
雪は街灯を霞ませ、馬車の音も遠く鈍く響いていた。
華やかな社交界では舞踏会や晩餐が繰り広げられていたが、少年テリュースが滞在していた別のタウンハウスは、しんと冷えた沈黙に包まれていた。
暖炉の炎は最低限にしか焚かれていない。
豪奢なはずの広間も飾り気なく、ツリーすら置かれていない。
その家には必要最低限の使用人だけが残され、声をひそめて働いていた。
テリィは椅子に腰を下ろし、黙って暖炉を見つめていた。
――同じロンドンに家族はいる。
父も継母も、継母の子どもたちも、きっと今ごろメインのタウンハウスでクリスマスを祝っている。
それでも自分は呼ばれず、ただ「別の屋敷にあてがわれた」だけ。
その事実は、幼い胸を静かに締めつけた。
「坊ちゃま、少しお部屋を暖かくしておきました」
控えめな声で、年配の執事が告げた。
「…音楽室の方が、火がよく燃えます。どうぞ」
テリィは小さく頷き、音楽室へ向かった。
扉を開けると、すでにストーブが赤々と輝き、ピアノの蓋は開けられていた。
使用人たちが、自分がここで過ごすことを知っているのだ。
タウンハウスの大広間には、誰もいない。
高い窓から覗く夜空には雪がちらつき、街路のガス灯がぼんやりと滲んでいた。
少年テリュースは、暖炉の火が小さくなるのを見つめながら、両手を膝に置いて座る。
室内は仄暗く、月光がピアノの黒い塊を鈍く照らしていた。
テリィは、白と黒の鍵盤が並んでいるのを見つめる。
それは「貴族の子息の嗜み」として習わされてきた楽器。
先生の前では何度も叱責され、退屈な練習曲を繰り返させられた。
けれど今夜は違った。
テリィは、鍵盤にそっと指を置く。
やさしい音が、ぽつりと響いた。
もう誰も見ていない。叱る声もない。
ただ弾きたいように弾ける。
断片的に覚えた旋律を、少年は辿るように鍵盤に落とした。
聖歌の一節、舞踏会で耳にした華やかな調べ――
不器用ながらつなぎ合わせると、部屋いっぱいに音が広がっていく。
孤独な夜、唯一の話し相手のようにピアノは応えてくれた。
少年は知っている曲を思い出しながら、小さな手で拙い旋律を紡いでいった。
間違えても構わない。誰も叱らない。
ただ音に身を委ねているうちに、時間の感覚が遠のいていった。
――その夜、ピアノは彼の唯一の友だった。
「寂しい」と声に出す代わりに、鍵盤に指を走らせる。
「どうして」と問いかける代わりに、和音を叩く。
音は返事をしない。けれど沈黙よりはずっと温かかった。
やがて雪が窓を覆い、冷たい夜が更けていく。
ピアノの響きに包まれながら、少年はふと目を閉じた。
――自由で、やさしい音。
それは彼にとって、初めて心を預けられるものだった。
大人になったテリィは、この夜のことをほとんど語らないだろう。
けれど「舞台に立つとき、音のように無心になれる」とき、それはきっとこの夜の延長線上にある。
孤独な少年に課せられたのは、果てしない躾と詰め込みの学びだった。
ペンを走らせ、楽器を弾き、剣を振り、舞踏の型を繰り返す――。
そのひとつひとつは、幼い心には束縛としか映らなかった。
だが、年月を経て舞台に立ったとき、彼は気づく。
あの孤独のなかで叩き込まれたものが、いま確かに自分を支えている、と。
剣を振るえば型が生き、声を放てば旋律となり、立ち居振る舞いは貴族のそれを自然に映す。
皮肉なことに――孤独のなかで与えられた不自由が、舞台上では彼を自由にしたのだった。
ピアノは俳優テリュース・グレアムを形づくる、見えない礎となったのである。