結婚一年を過ぎた秋のニューヨーク。
休演日の午後、ふたりは久しぶりに街へ出ることにした。
出かける前、鏡の前でテリィは真剣な顔をして帽子を深くかぶり、丸眼鏡をかけている。
「よし、これで誰にも気づかれない」
声にどこか得意げな響きすらある。
キャンディは思わず吹き出しそうになるのをこらえて、首を傾げた。
「……テリィ、それ本気で言ってる?」
「当たり前だろ。俳優が街角で騒ぎになるのは困るんだ。ちょっとした変装ぐらい常識だ」
「ふうん……」
エレベーターで降りてペントハウスのロビーに出ると、すぐに管理人が笑顔で声をかけてきた。
「お出かけですか、グレアムさん」
「……」
テリィは小さく咳払いをして帽子を直した。
キャンディは横で肩を揺らしながら囁く。
「隠せてるのは名前ぐらいかもね」
「いや、いつも顔を合わせてる人だからだ」
テリィはむきになりながらも、キャンディの笑みを見てわずかに耳を赤くした。
街に出ると、案の定すぐに何人かの視線が向けられた。
けれど誰も声をかけようとはしない。
なぜなら――帽子に丸眼鏡、そしてスラリとした立ち姿が、かえって目立っていたからだ。
「ねぇ、あの人って……」
「もしかして……」
ひそひそ声が背後から追いかけてくる。
キャンディは小さなため息をつきながら、彼の腕にそっと手を添えた。
「ねえテリィ、隠すよりも堂々としていた方がずっと自然じゃない?」
「……わかってる。でも――おまえといるときに騒ぎになったら嫌なんだ」
その一言に、キャンディの胸がふっと熱くなる。
彼がどんなに不器用でも、自分を守ろうとしていることだけは伝わってきた。
「じゃあ……これからも、その変装ごっこに付き合ってあげる」
そう言って笑いかけると、テリィはわざとらしく目を細めて彼女を見下ろした。
「ごっこじゃない。本気だ」
「ええ、わかってるわ」
微笑ましいやり取りに、秋風が頬をなでていった。
変装は完璧じゃない。
けれどその不器用さすら、キャンディには愛おしく映っていた。
通りを歩いていると、八百屋の親父がふいに顔を上げた。
「ややっ……その帽子と眼鏡、ずいぶん怪しい格好だなぁ。……おや? もしや“ハムレット”の!」
隣の果物屋の女将まで手を打って声を上げる。
「まぁ、そうよ! テリュース・グレアムだわ!」
テリィは小さく咳払いして、眼鏡を押し上げながらそっけなく答えた。
「……人違いじゃないですかね」
キャンディは思わず口元を押さえて笑い、彼の袖を軽く引いた。
「ね? だから言ったでしょう? その“変装”の方がかえって目立つのよ」
テリィはわずかに眉を寄せ、けれど諦めたように小さく笑った。
「……仕方ないな。だが、俺は本気で隠してるつもりなんだぞ」
「ええ、知ってるわ」
そう返すキャンディの瞳には、愛しさと微笑ましさが入り混じっていた。
人だかりが少しできかけたのを察して、テリィはキャンディの手をぐっと握り、歩調を早めた。
「行くぞ」
ぶっきらぼうな声とは裏腹に、その掌にははっきりとした力がこもっている。
キャンディは振り返りかけたが、彼が自分を前に庇うように歩いていることに気づいた。
長い脚で自然と人垣を避け、彼女を人混みから守るように進む姿。
その不器用な優しさに、胸の奥が温かくなる。
「……本当に、隠すつもりなの?」
半ば呆れたように笑うと、テリィは帽子のつばを深く下げて答えた。
「当然だ。だが、騒がれるより、きみを守る方が先だ」
頬を染めたキャンディは、ただ小さく「ありがとう」と囁いた。
その言葉に、彼は気恥ずかしそうに目を逸らしながらも、手だけは決して離そうとはしなかった。