ニューヨークのペントハウス。
新婚生活もようやく落ち着き、夜の稽古から戻ったテリィは上着を椅子にかけると、すぐに台所に立った。
キャンディはその背を見つめて首を傾げる。
「こんな時間に何か作るの?」
振り返った彼の手には、蒸気の立ちのぼるマグカップ。
「蜂蜜を溶かした湯だ。舞台前後は必ず飲む」
さらりと言って口に含むと、喉の奥をゆっくり通して飲み下した。
その仕草に、キャンディは小さく目を見開いた。
「それって、ずっとやってたの?」
「ああ。『ハムレット』の頃からしてた。芝居は喉を酷使するからな」
マグを置くと、テリィはボウルに熱湯を張り、タオルを取り出した。
キャンディが問いかける前に、そのタオルを頭からすっぽりかぶり、湯気を胸いっぱいに吸い込む。
「……蒸気を吸うと、炎症が和らぐ。声が乾かない」
タオルの隙間から低く漏れた言葉に、キャンディは微笑みながら頷く。
「それ、医療でやる吸入療法と同じよ」
「俺が考えついたわけじゃない。前に、声楽家から教わったんだ」
湯気に包まれる横顔は、舞台上の華やかさとは違い、ただ自分の体を律する職人の顔をしていた。
蒸気吸入を終えたテリィは、椅子に腰掛けて喉を軽く叩きながら言った。
「ニューヨークの耳鼻科医に定期的に診てもらってる。声帯の腫れや炎症はすぐ舞台に響くからな」
「……本当にストイックなのね」
「必要だからやってる」
キャンディは看護婦としての視点で彼を見つめ直す。
「その習慣はすごく理にかなってるわ。蜂蜜は炎症を和らげるし、蒸気は粘膜を潤す。
それに……あなたが煙草をやめたのも、大きいと思う」
その言葉にテリィはわずかに口角を上げた。
ふと彼は立ち上がり、窓辺に向かって腹に手を当てた。
深く息を吸い込み、低音から母音を伸ばし始める。
「アー……」
その響きは空気を震わせ、アパートの壁に反響した。
やがて中音から高音へと移り、声は澄み切って夜に広がっていく。
キャンディは思わず息を呑んだ。
「……稽古場じゃなくても、そんなふうにしてるのね」
「舞台は体力勝負だ。声を守れなければ、立つ資格もない」
言葉は淡々としていたが、その目は真剣だった。
キャンディはそっと近づき、彼の胸に手を置いた。
「あなたが声を守ってくれるのは、風邪を引かないことにもなって、あなた自身を守ることになるわ」
テリィはその手を取り、少し照れくさそうに笑った。
「アドバイスあればお願いしたい」
「もちろん。私は奥さんでもあるけど、あなたの専属の看護婦にもなりたいわ」
その答えに、テリィは蜂蜜湯の残りを掲げて茶化した。
「じゃあ、この一杯はきみに乾杯だ」
「ふふ、そういうのは乾杯しないけど……でも、まあいいわ。こういうのは楽しくないと、続かないものね」
テリィの瞳には、舞台人としての誇りと、彼女への感謝が確かに宿っていた。