夢の中で呼んだ名前。

――テリィ。

知らない男の名。

彼女の唇から自然にこぼれたその響きが、ずっと耳に残っていた。

キャンディは「ただの友人」と言った。

だが、その笑顔は曖昧で、目の奥に深い影があった。

彼女は誰かを思っている。

その確信が、胸を鋭く締めつける。


それでも、彼女の横顔に目を奪われる自分がいる。

夕陽に照らされた頬の赤み、風に揺れる髪の匂い。

――どうしても手放したくない。

「……そうか。夢の中で呼んだだけ、か」

口に出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。

嫉妬か、諦めか、はっきりしない感情が喉を焼いた。

けれどその一方で、彼の胸には強い願いが芽生えていた。

あの名前に縛られていてもいい。けれど、僕の方を振り向いてほしい。


夕暮れ時。診療所の仕事を終えたキャンディは、帰り道の足を自然と牧場へと向けていた。

空は群青に染まり、草原には夜の匂いが漂っていた。

柵にもたれていたエリオットが彼女に気づき、笑顔を浮かべる。

「来てくれたんだ」

「ええ、少し……話したくて」

その声はかすかに震えていた。

しばらく沈黙が続いた後、キャンディは深く息を吸い込んだ。

「……エリオット。私あなたに嘘をついてしまったのや

エリオットは真剣な眼差しでうなずいた。

「話してくれるんだね」

キャンディは遠くを見つめるようにして、静かに語り出した。

「学生のころに……ある人と出会ったの。最初は衝突ばかりだったのに、いつの間にか心が通じて……」

「……」

「でも、数年前に別れてしまった。事情は話せないけど……私がどれほど望んでも、あのひととは一緒にいられなかった」

声は次第にかすれ、目が潤む。

「それでも……心から消えないの。どこにいても、何をしていても、あのひとが胸にいる」

キャンディは必死に笑おうとしたが、頬を伝う涙を止められなかった。

「……でもね、忘れなければならないとも思ってるの。そうじゃなければ、前に進めないから」

言葉の最後は、押し殺した嗚咽に変わっていた。

「どうしたら……どうしたら忘れられるのかわからないの……?」

エリオットは迷わなかった。

柵から身を離し、キャンディの肩を強く抱き寄せた。

「その人が『テリィ』という名で……ただの友人でないということなんだね?」

キャンディは小さく頷いた。

「そっか……話してくれてありがとう。でも僕なら……その彼を忘れさせられる」

低く震える声が耳元に届いた。

キャンディは彼の胸に押し付けられながら、強い温もりを感じた。

だが次の瞬間、心の奥で鋭い痛みが走った。

その温もりを受け入れることが、自分の心にもう一つ嘘をつくことだと気づいてしまったからだ。

「……ごめんなさい、エリオット」

声は震え、涙がこぼれた。

「あなたの気持ちは嬉しい。でも……今は答えられない」

エリオットは唇を噛み、しばらく彼女を抱いたまま黙り込んだ。

やがて深く息を吐き、彼女の肩をそっと離した。

「わかった。すぐに答えはいらない。……考えて、返事をしてほしい」


別の日の静かな午後。

カートライト牧場の柵のそばで、再び二人は向き合った。

キャンディは覚悟を決めたように言葉を紡ぐ。

「エリオット……。あなたとなら、きっと楽しく過ごせると思う。不安にもならないと思う」

エリオットの瞳に、かすかな希望の光が宿った。

けれど次の瞬間、キャンディは首を振り、その光を打ち消した。

「でも……やっぱりあのひとじゃないと、私の心は納得しないの」

沈黙が落ちた。

風が草を揺らし、二人の間を冷たく吹き抜ける。

エリオットは力なく笑った。

「……それは、片思いのままってことでもいいということ?」

キャンディはそっと頷いた。

「片思いとか、そういう問題じゃないの。私の心の問題なの」

彼女の言葉は静かだったが、揺るぎなかった。

エリオットは深く息を吐き、空を見上げた。

夕暮れの雲の切れ間から、一筋の光が差していた。

「わかったよ。君の心は、もうずいぶん前から決まっていたんだな」

寂しさを滲ませながらも、彼は誠実な笑みを浮かべた。

「でも、僕は後悔しない。君に出会って、好きになったことは……たとえ報われなくても」

キャンディは胸が締め付けられる思いで、彼を見つめていた。

それでも――心は嘘をつけなかった。


牧場の空気は静まり返り、二人の間に言葉よりも重い沈黙が流れた。

キャンディは胸の奥で、あの人の名を呼んでいた。


――テリィ。


翌朝。

エリオットは旅の資金を手に、再び街へ向かった。

「アメリカ一周の際は、その途中で、また寄るよ!」

明るい声を残して去っていった。


子どもたちが手を振り、キャンディも静かに微笑んで見送った。