夕暮れの空は茜から群青へと変わり、牧場の柵の影が長く伸びていた。
一日の仕事を終えた牛たちが小屋へ戻っていく中、キャンディは診療所からその足でカートライト牧場へ向かっていた。
昨夜の嵐で倒れ込むように眠ったこと、目を覚ますとレイン先生に「一晩熱を出していた」と告げられたこと。
そして、朝になれば熱も下がり、普段通りの仕事に戻れたこと。
どうしても伝えなければならない感謝が胸に残っていた。
柵の前に立つと、ちょうどエリオットが荷物を運んでくるところだった。
汗をぬぐった彼が気づき、笑顔を見せる。
「キャンディ……元気そうだ。安心した」
キャンディもほっと笑みを返した。
「昨日は本当にありがとう。あなたがいなかったら、私はどうなっていたか……。おかげで今日は無事に出勤できました」
「そんな、大げさだよ」
エリオットは柵に手をかけ、少し照れくさそうに視線を落とした。
「僕は、当たり前のことをしただけだ」
「でも……ありがとう。本当に」
キャンディも柵に寄りかかり、風に吹かれる髪を押さえた。
微妙な沈黙が流れた。
吹き抜ける風が草を揺らし、夕日の光が二人の横顔を金色に染める。
心地よいはずの風が、なぜか二人の間の空気を落ち着かなくしていた。
しばらくは牧場の牛のこと、子どもたちのいたずらのこと、診療所での笑い話――。
他愛もない会話を重ねることで、互いに昨夜の出来事を意識しすぎないようにしていた。
けれど、ふとエリオットの笑みが消え、視線が真剣に変わった。
「……一つ、聞いてもいいかな」
「なあに?」
「……昨日の夜、君が倒れかけたとき。名前を呼んでいたんだ」
キャンディの胸が跳ねる。
「名前?」
「“テリィ”って……。あれは、誰のこと?」
空気が凍りついた。
キャンディは反射的に笑おうとしたが、うまく声が出なかった。
「そ、それは……ただの……」
必死に言い訳を探した。
だが唇から出る言葉はたどたどしく、彼女自身を誤魔化すような響きしか持たなかった。
「夢の中で……昔の友だちのことを……思い出しただけよ」
「昔の友だち……?」
エリオットの目が細められる。
「ええ……。たいしたことじゃないの。気にしないで」
声は軽く装ったが、指先は小さく震えていた。
なぜ――なぜ彼にだけは、この名前を知られたくないのだろう。
そう思いながらも、心の奥で答えはわかっていた。
その人の存在を口にすればするほど、自分の心の奥にある「忘れられない影」が輪郭を持ってしまう。
そしてそれを、この真っ直ぐで誠実な青年に知られてしまうのが怖かった。
エリオットはしばらく黙った。
夕陽が沈み、二人の間に影が落ちる。
「……そうか。夢の中で呼んだだけ、か」
その声にはどこか諦めが滲んでいた。
だが同時に、胸の奥にくすぶる嫉妬のような感情を、彼自身も持て余しているのが伝わってきた。
キャンディはうつむき、小さく「ごめんなさい」とだけ言った。
微妙な風がまた吹き、二人の髪を揺らした。
その風の中に、言えなかった言葉と、伝わらなかった想いが散っていった。
その日、キャンディは胸に重い影を抱えたまま、牧場を後にした。
名前を呼んでしまったのは夢のせい。
そう言い聞かせても、エリオットの眼差しが焼きついて離れなかった。
――なぜあの名前を、誰にも知られたくないと思ったのだろう。
帰り道、キャンディは自分自身に問い続けた。
答えはまだ出なかった。
けれど、胸の奥でひとりの青年の影がますます鮮やかになっていくのを、どうしても否定できなかった。