9月のブロードウェイ。
『ロミオとジュリエット』の稽古場には、張り詰めた空気が流れていた。
なかでも剣術指導の場面は一層の緊張を孕んでいた。
ロミオ役のテリュース・グレアム。
ティボルト役の俳優と対峙するも、どうにも稽古が進まない。
「待て、そこは踏み込みが浅い」
「剣先がブレている、観客に背中が見えるぞ」
舞台監督の指摘にティボルト役の男は顔を曇らせる。
ロミオとティボルトの決闘――物語の要となる場面だ。ところが剣が交わるたびに、圧倒的な差が露わになっていく。
稽古場の空気が重く沈んだ。
相手を立てようとテリィが速度を落とせば、芝居全体の迫力が損なわれる。
だが本気で打ち込めば、剣先が空を裂く音にティボルト役が後ずさりしてしまう。
「これでは成立しない」
低くつぶやいたのは演出家スチュアートだった。
剣の達人として描かれるティボルトが、このままでは“ただの敵役”にしかならない。
その日の稽古が終わり、演出家と舞台監督は互いに視線を交わした。
「なあ、グレアム。ひとつ訊いていいか」
休憩中のテリィに、舞台監督が声をかける。
「これまでやった中で……こいつなら、と手応えを感じた相手はいるか?」
テリィは黙って考え、やがて短く答えた。
「……ケビンですね。スカーレット・ピンパーネルで斬り結んだ時、剣の呼吸が自然に合っていました」
名前が出た瞬間、演出家の眉が動いた。
「チームSのケビンか……彼なら舞台経験も申し分ないな」
「すぐに呼んで試してみよう」
数日後、稽古場にケビンが姿を現した。
彼は照れくさそうに笑いながらも、剣を受け取ると一気に目が変わった。
「久しぶりだな、テリィ」
「手加減はいらないだろう?」
木剣が交わると、稽古場の空気が一変する。
足運び、間合い、剣先の鋭さ。
すべてが噛み合い、激しい応酬が始まった。
「はっ!」
ケビンの剣が鋭く走り、テリィの肩口を狙う。
それを受けて返すテリィの剣筋もまた、鋭さを失わない。
木剣と木剣がぶつかる乾いた音が、稽古場に火花のように響いた。
「……すごい」
見守っていた団員たちから思わず声が漏れた。
今までの稽古では見られなかった緊迫感が、そこにあった。
二人の動きは舞台上の物語そのもので――まるでロミオとティボルトが本当に命を懸けて戦っているかのようだった。
最後にケビンの木剣が跳ね飛ばされ、床に転がる。
息を荒げながらも彼は笑みを浮かべ、肩で呼吸する。
「……やっぱり、あんたとやると燃えるな」
テリィも剣を下ろし、短くうなずいた。
静まり返った稽古場に、演出家の声が響く。
「――決まりだ。ティボルトはケビンに変更する」
拍手と歓声が広がった。
ケビンは驚きと喜びを隠せず、思わず目を丸くする。
「本当に、俺でいいんですか?」
「おまえ以外に誰がいる」
舞台監督が力強く答え、稽古場は一気に活気を取り戻した。
こうして『ロミオとジュリエット』のティボルト役は、急遽ケビンに交代することとなった。
それは偶然ではなく、剣の呼吸を共有できる者同士だからこそ生まれた必然だった。
別の日の稽古場。
床には白いテープで立ち位置が印され、長机や椅子が仮置きされている。
舞台中央では、二本のレイピアが鋭く打ち合わされていた。
「はッ!」
「おおっ!」
金属の音が響くたび、稽古場にいた者の視線が吸い寄せられる。
テリュース・グレアムのロミオと、ケビンのティボルト。
息を合わせるはずの殺陣は、まるで真剣勝負のようだった。
最初は通りがかりの俳優が立ち止まっただけだった。
しかし次第にその輪は広がり、音響担当や衣装係まで顔を覗かせている。
「ちょっと、あれ本当に刺してない?」
「いや、刺してないはず……だよな?」
囁き声とともにどよめきが広がった。
ケビンは目を細め、テリィの剣筋を真正面から受け止める。
テリィは素早く身をひねり、鋭く間合いを詰める。
それは教科書通りの動きではなく、互いに“次を読んで先を潰す”攻防だった。
「……おいおい、稽古だぞ!」
演出助手が声を上げたが、二人は聞こえないふりで刃を交わし続ける。
最後にテリィが鋭く踏み込み、ケビンのレイピアを高々と弾き飛ばした。
金属音が稽古場の床に転がり、静寂。
「いやー、やられたよ……」
ケビンが笑みを浮かべ、両手を広げた。
テリィも思わず口の端を上げ、深く息を吐く。
その瞬間、見物していた団員やスタッフから拍手と歓声が巻き起こった。
「今のは本番並みだ!」
「観客が金を払っても見たい稽古だな!」
二人は照れくさそうに肩を並べ、軽く笑った。
だがその笑みの奥には、互いを認め合う戦友としての火花が確かに宿っていた。
役者同士の呼吸が合わなければ、物語は立ち上がらない。
そしてその夜、稽古場にいた誰もが確信していた。
「ロミオとティボルトの決闘は、きっと伝説になる」
稽古を終えたあと、演出家はケビンをしばし見つめ、眉を上げた。
「……驚いたな。どうしてそんなに剣ができる?」
ケビンは少し照れたように肩をすくめる。
「舞台学校で、殺陣の授業があったんです。フェンシングも基礎で習いました。
ほかは並みでしたけど……剣だけは、なぜか身体に馴染んで」
「なるほどな」
演出家は深くうなずき、まるで合点がいったという顔をした。
ちなみに――配役変更は決して珍しいことではない。
とくにシェイクスピア劇やブロードウェイの大作では、稽古の途中で演出家が「役に合わない」と判断すれば、別の俳優に交代させるのはごく普通のことだった。
観客の前に立つ以上、作品の完成度を優先するのが舞台の常なのだ。