ロミオ役がテリュース・グレアムに決まった――。
劇団が正式にその名を発表したのは、数日前のことだった。
演劇ファンも記者も熱狂し、その舞台を待ち望んでいた。
だが、その熱狂は芝居よりも、別の方向にも燃え広がっていた。
少し前の夜。
稽古帰りの団員たちが散りゆく中、シャッターの光に照らされたのは、外套の襟を立てて歩くテリィと、たまたま隣に並んだ若い女優の姿。
彼女は驚いたように目を細め、すぐに微笑んだ。
ほんの数秒の出来事。
だが翌朝には、大きな見出しとなって街を駆け巡った。
『現実のロミオとジュリエット!? 人気俳優テリュース、夜の街で“彼女”と』
記事は、決定直後のロミオ役と、偶然隣にいた女優を結びつけてさらに書き立てていた。
「舞台の恋がそのまま現実になった」
「劇場を出た二人の表情は、まさにロミオとジュリエットそのもの」
――紙面にはそうした文言が並び、真実などお構いなしに物語が作られていった。
さらに追い打ちをかけたのは、その女優の対応だった。
取材に対し、彼女は意味深な笑みを浮かべながらこう答えた。
「グレアムさんとは、とても尊敬できる関係です」
それ以上でも以下でもない言葉だったが、記者たちは「親密な関係を認めた」と解釈し、翌日の紙面にはさらに大きな見出しが躍った。
『沈黙のロミオ、新星女優と愛を育む?』
「芝居の評判よりもスキャンダルが先行することだけは避けたい」
団長ロバートの机には記事が積まれ、ため息が絶えなかった。
ロミオに決まった直後の喜びの空気は、瞬く間にスキャンダルの炎にかき消されていく。
祝福の声より先に押し寄せたのは、記者の問いとカメラの光。
「ジュリエットとは本当に交際しているのですか?」
「舞台の愛がそのまま現実になったと理解していいのでしょうか?」
「結婚は――?」
質問は芝居に関するものではなく、すべてが私生活への踏み込みだった。
劇場入り口を出るたびに突きつけられる言葉に、テリィは一度も答えなかった。
それでも記者たちは怯まず、彼の沈黙を勝手に物語に変えていく。
「沈黙は肯定と同じ」「冷ややかな態度の裏に燃える恋」――。
彼にとっては、芝居こそが全てだった。
ロミオという役は、克服すべき壁である。
だが、周囲は彼の内面の戦いを知る由もない。
欲しいのは、見出しに映える「ロミオとジュリエットの恋」だけ。
稽古場の空気も変わり始めていた。
誰も公には口にしないが、ひそやかな視線が突き刺さる。
「結局は話題性で選ばれたのでは?」
「劇団は世間の期待に押されただけだ」
そんな陰口が廊下を流れ、耳に入らぬはずの声が、確かに彼の背を押し潰した。
テリィは黙々と稽古を続けた。
台本をめくる指は固く、ロミオの台詞を口にしても心は晴れなかった。
純粋な愛を語るその言葉が、皮肉にもスキャンダルの見出しと重なり合い、胸を刺す。
ある夜、稽古を終えて楽屋に一人残った彼は、机の上に置かれた新聞をじっと見つめた。
大きな見出し、加工された写真、誇張された文章。
そこには「俳優」としての自分ではなく、「物語の登場人物」としての自分が勝手に作られていた。
手を伸ばし、紙を丸めて投げ捨てようとした。
だが指先で止まり、静かに丸められた新聞は机の端に置かれたままだった。
――どれだけ否定しても、世間は信じたい物語しか信じない。
そう知っているからこそ、余計な言葉を口にする気にはなれなかった。
沈黙は彼にとって唯一の盾であり、同時に深い影でもあった。
孤独な戦いは、誰にも理解されぬまま続いていくのだった。