夜更けの静けさが、窓辺から流れ込んでいた。
リビングにはランプがひとつだけ灯り、テリィはソファに腰を掛けて台本をめくっている。
キャンディはベッドに腰を下ろし、髪を解きながらその背中を見つめていた。
「……今日は遅くまで稽古だったんでしょう? 少し休んだら?」
声をかけると、テリィは軽く肩を竦めただけで、視線を台本から外そうとしない。
「まだこのシーンに納得いかなくてな」
指先で示されたページには、大きな書き込み。
そこに記されているのは、舞台で恋人役と抱き合う場面だった。
キャンディの胸に、ちくりと小さな痛みが走る。
――こんなことで心を揺らすなんて。
自分でも可笑しいと思う。
彼は俳優。役に入り込むのは当然のこと。
ましてや抱擁や口づけ(そう見えるようにするために頬が触れるほど近い)は、舞台の一部でしかない。
頭ではそう理解しているはずなのに、活字になった“抱擁”という言葉に、無意識に心が反応してしまう。
(俳優の妻がこんなふうにヤキモチを焼くなんて、情けないわ……)
ベッドに身を横たえながら、そんな自嘲めいた声が胸の奥で響く。
長い年月、互いにすれ違っていた。ようやく心を通わせたが、会う時間すら満足に得られなかった二人。
「恋人同士」と呼べる時間を十分に積み重ねられたわけではない。
だからこそ、結婚してから初めて味わうこうした胸のざわめきは、キャンディにとって戸惑うほど新鮮だった。
「どうした?」
ふと、テリィが顔を上げる。
台本から視線を外し、じっとこちらを見つめていた。
「ううん……なんでもないわ」
慌てて微笑んだものの、声音がわずかに揺れる。
その揺らぎを、彼は敏感に察した。
「もしかして、舞台の抱擁シーンか」
低い声が静かに落ちた。
キャンディは息をのむ。
否定しようと思ったのに、うまく言葉が出てこない。
「私、わかってるのよ。あれは芝居だって。あなたの仕事だって」
言いながら、キャンディは視線を落とす。
「でも……新聞や記事で『恋人のように』なんて書かれてるのを目にすると、胸の奥がざわめいてしまうの。ほんの少しだけ、ね」
テリィは短く息を吐いた。
「珍しいな、おまえがそんなこと言うなんて」
その一言に、キャンディの頬が赤くなる。
「……そうね。子どもみたいね私……俳優の妻がこんなことで嫉妬するなんて、笑っちゃうでしょ?」
テリィは静かに立ち上がり、キャンディの隣に腰を下ろした。
彼の影がランプの灯りを遮り、柔らかな影を二人の間に落とす。
「笑わないさ」
低い声は真剣だった。
「俺だって、嫉妬する。おまえが楽しそうにほかの男の話をするとき、面白くない。……だから気持ちはわかる」
キャンディは驚いて彼を見つめる。
その眼差しには、舞台で見せるどんな役柄よりも素のテリィがいた。
「それに……」
彼は少し視線を伏せ、苦笑する。
「そうやって嫉妬で揺れるおまえを見ると、安心もする」
「安心?」
「俺を想ってくれてるって、確かめられるから」
キャンディは一瞬呆気にとられ、やがて小さく笑った。
「……あなたって、ずるいわね」
「そうか?」
「ええ。私が恥ずかしくなるくらい素直なことを言うんだもの」
テリィはそっとキャンディを抱き寄せた。
髪に唇を触れさせながら、低く囁く。
「舞台で誰を抱いても、どんな目で見ても……抱きしめたいと思うのは、きみだけだ」
胸の奥に残っていた棘が、すっと消えていく。
キャンディは彼の胸に額を預け、微笑んだ。
「ありがとう……もう十分よ」
触れ合った唇は、ほんの少しの嫉妬さえも甘い余韻へと変えていった。