セントラル・ミラージュ劇場。開演までまだ数時間ある朝の劇場ロビー。

スタッフたちはプログラムや受付台を整え、観客を迎える準備に追われていた。

そんな中、ロビー中央に異様な存在感を放つ巨大な花のスタンドが置かれていた。


赤と白のバラをふんだんに使い、背丈ほどの高さにまで盛り上げられた豪華なアレンジメント。

花の陰からちらりとのぞく木札には、太い文字でこう書かれていた。


『祝・主演 ノア・チャップマン殿

ストラスフォード劇団テリュース・グレアムより』


「……は?」

ロビーに呼び出されたノアは、一瞬言葉を失った。

この名前に見覚えがない者は、この劇場にはいない。いや、街中だってそうだろう。

しかも、こんな規格外のサイズ。正直、ロビーの景観がこれ一つで変わってしまっている。

すぐに脳裏に、あの鋭い灰色の瞳と落ち着いた低い声。

それまでノアは、主役こそが役者の到達点だと信じて疑わなかった。

見た目の華やかさ、演技力、影響力、カリスマ性——すべて揃った者だけが立てる場所。

自分もそこを目指し、日々稽古に明け暮れていた。

けれど、チャリティーイベントのオーディションでは早々に落ちた。

ひときわ輝くテリュース・グレアムは、舞台の中心に立ち、一瞬で視線を奪うことができる人間……ああ、これが本物か、と悟った瞬間だった。

その日からノアは、正統派の主役はきっぱりと諦めた。

自分が輝けるのは別の場所だ、もっと自由に笑いを生み出すコメディの世界だと。

そこからは迷わなかった。自分にしかできない芝居で天下を取ると心に決め、走り続けてきた。

——そして今日。2度目の主演の座。

そのことを知っているテリィは、「おめでとう」と花を贈ってくれたのだ。

だが、このサイズは……スタッフが「ちょっと盛りすぎ」たのか、それともテリィが最初からそう言ったのか。

どちらにせよ、見上げるほどの花は、彼の不器用な優しさにしか思えなかった。


「……まったく、やってくれるよな。」

思わず笑いが漏れた。

ただの祝いじゃない。この花のひとつひとつが、「お前の選んだ道を、俺は知ってる」という無言のエールに思えて、胸が温かくなる。

ジムが後ろから肩を叩いた。

「あのテリュース・グレアムとほんとに友達なんだな」

「前も同じこと言ってたぞ?」

「そうか? でもいい友達を持ったな、ノア。」

「ああ。あいつに笑われない芝居を、しっかりやらないとな。」

「笑いの芝居なのに?」

この日、ノアの心には緊張ではなく、奇妙な高揚感が灯っていた。

開演ベルが鳴るまで、何度も花の前を通り、そのたびに笑みをこぼす自分に気づくのだった。




初日から数日後。客席は連日満席で、笑い声が波のように押し寄せていた。だが、この日は違った。第1幕の途中から、どうにも落ち着かない。

鋭い視線が、暗がりの中からこちらを射抜いてくる。

「気のせいだ、気のせい…」

そう自分に言い聞かせながらも、台詞の合間ごとに心臓が跳ねる。幕間の間に、幕の隙間から客席を覗いた。

――いた!

なぜかコートの襟を立ててマフラーで顔を覆い、帽子を目深にかぶり、夏どころか真冬仕様。だが、その肩の線、その座り方。間違いない。

テリュース・グレアムだ。

隣には、やわらかな笑みを浮かべるキャンディがいる。ノアはさらに動揺した。

(やばい、やばいやばい! なんでこの日に限って! しかも変装が逆に怪しすぎる!)

袖に戻ると共演者に「顔、引きつってない?」と突っ込まれる始末。このままじゃ2幕でセリフを噛む。

そのとき、ふとケビンの“謎のおまじない”を思い出した。

両手の親指と人差し指で輪を作り、鼻の下に当てて、心の中で「バナナ3本」。

(バナナ…3本…)

馬鹿馬鹿しさに、自分でも笑えてきた。

肩の力が抜け、第2幕は驚くほど滑らかに進んだ。観客の笑い、温かな拍手。

そして終演後、スタッフが告げた伝言。

「ノアさん、テリュース・グレアムさんが楽屋でお待ちです」

やっぱり。ノアは深呼吸して廊下を歩いた。


(よりによってあの変装で来るか?……あれじゃ余計に目立つだろ)

楽屋の前に立つと、ドアの向こうから小さな笑い声が漏れてくる。ノアは息を整え、ノックした。

「どうぞ」

低く落ち着いた声。ドアを開けると、真夏仕様とは真逆の格好を脱ぎかけたテリィとその隣にキャンディが座っていた。

彼女は笑いをこらえきれず、頬を赤くしている。

「よぉ、ノア。初主演、おめでとう」

テリィは短く、それでいて心の底からの祝福を込めて言った。ノアは笑い返しつつも、指を突きつけた。

「なんでその格好なんだ?客席で一番目立ってたぞ」

「目立たないようにしたつもりだったんだが?」

キャンディがクスクスと笑ってる。

「暗がりでコートにマフラーって、逆に怪しいからっ!」

キャンディがとうとう吹き出した。

「私も言ったんだけどね、目立つよって」

「おかげで第2幕は妙な緊張だったけど、まあ、バナナ3本でなんとか持ち直したけどな」

「バナナ3本?」とテリィが眉をひそめる。ノアは得意げに説明した。

「ケビン直伝の必勝法だよ。親指と人差し指で輪を作って鼻の下の当てて、心の中で“バナナ3本”て言うんだ」

テリィは一瞬絶句し、次の瞬間、笑い声をあげた。

「あははは、なんだそれ?」

「ウソじゃない。君もやってみたらいいよ。……でもあれ、デカすぎじゃない?まあ、最高に嬉しかったけど」

すぐにキャンディが慌てて言った。

「ごめんなさい! あれ、実はわたしが手配したの。どういう花を送ればいいのか知らなくて、つい“大きいほうがいいのかな”って…」

「えっ」

一瞬ノアもテリィも絶句したが、すぐに同時に吹き出した。

ノアはふと、舞台に立ちながら感じた温かさを思い出した。

華やかな花も、わざわざ足を運んでくれたことも、自分が進む道を肯定してくれる何よりの証だった。

「テリュース、キャンディ。本当にありがとう」

言葉にすると、胸が少し熱くなった。

「また観にくるよ」

「季節に合わせた服装て来てくれよ」

3人の笑い声が、楽屋の小さな空間いっぱいに広がった。