カフェの帰り道、雨の気配はすっかり消え、
歩道はところどころ濡れたままなのに、空はもう高く澄んで、夕方の青を取り戻していた。
車内は無言のまま母の待つ自宅に着いた。
けれど「ただいま」と声をかける気力はなかった。
「夕飯いらないわ、ちょっと疲れたから横になる」
それだけを言って、すぐに自室へとひきこもった。
ドアを閉めると、外の世界との境目がふっと消えたような気がした。
重く、静かで、閉じられた自分だけの空間。
そう、こんなふうに感じるのは―いつ以来だろう。
義足を外し、ベッドに腰を下ろす。
鏡越しに映った自分は、ラジオで明るく話す“声の人”ではなく、ステージで拍手を浴びる女優でもなく、ただの女だった。
「…近くにいることが唯一の方法じゃないって、テリィは言ってた」
小さくつぶやく。
声に出してみると、その言葉の重さが胸に降りてくる。
彼の眼差しににじんでいたもの。
“覚悟”だった。
“優しさ”なんかじゃない。
彼なりの、“別れの準備”だった。
心の中でようやく、そう理解できた気がした。
「…私が、きっと先に気づくべきだったんだわ」
もう杖がなくても外に出られる。
舞台の依頼もまた来ている。
何より、テリィの助けがなくても“自分で考え、自分で選べるように”なっていた。
それを、受け入れたくなかっただけ。
“支え”が“執着”に変わってしまうことが、怖かった。
けれど、いま静かな部屋で、誰にも言えない想いを反芻するうちに、
ほんとうに怖いのは、別のものだと気づく。
(私が怖かったのは、あの人の未来に、
“私がいない”という選択肢がある、ということ)
「…わかってた。いずれ、こうなる日が来るって」
ひとりで立ち上がる日を、彼はずっと信じてくれた。前に進めずにいた私を勇気づけてくれたのも彼だった。
でも、私が思うよりずっと早く、ずっと遠くを見ていた。
私はいつも、テリィに歩幅に合わせてもらっていたんだ。ゆっくり、ゆっくり。
そして、ちゃんと“私の今”を見届けてくれている。
「ありがとう。でも…私は、もう少し時間がほしい」
まだ追いつけない。
まだ、覚悟ができない。
でも―見失いたくはない。
少しずつでもいい。
この心に、ちゃんと整理がつけられる日が来たなら。
(そのときは、笑ってあなたの背中を見送れるようになりたい)
窓の外では、風がカーテンを揺らしていた。
遠くで車の音。階下の足音。
そして、スザナの部屋の中に、ひとつの決意だけが、静かに灯っていた。