8月の末、ニューヨーク。地方巡業からテリィは戻り束の間の休日の午後。


テリィは、ラジオ局の玄関口の軒下で傘をたたんだ。スザナが出てくるまでの間、窓越しにちらちらとロビーの中をうかがう。ガラスの向こう、スザナの口元の自信のある表情は、もう、あの頃の彼女とは違う。


「待たせたわね、テリィ」

「いや。俺もちょうど着いたとこだ」


そう言って彼女の手から荷物を受け取ると、自然と彼女の歩幅に合わせてゆっくり歩き出した。今日は杖だけだが、義足との動作にも違和感少なく滑らかで、しっかりとした足取りをしていた。


いつもならそのまま自宅まで送るのが常だが、今日は途中のカフェに足を向けた

カフェは雨のせいか空いていて、奥のソファー席に腰を下ろした。ほどなくして、温かなカップがふたりの間に置かれた

「スザナ」

テリィが先に口を開いた。

「うん?」

「最近の仕事、順調そうだな。今朝、番組の評判見たよ。リスナーからの声も多いらしいじゃないか」

「ふふ、ありがとう。でもテリィが迎えに来てくれるほうがニュースになるかもよ。見られたらまた何か書かれちゃうわ」

「そうかもな」


そう言って笑い合う一瞬。だが、テリィの視線はふっと真剣な色を帯びた。

「…少し、話したいことがあるけどいい?」


スザナのまつげが揺れる。

「なあに?」

「…今のまま、ずっと―この距離感のままでいていいのか、考えるようになった」

彼女の指先が、カップを握る手の中でわずかに緊張する。


「もちろん、いきなり“終わり”にしようって話じゃない。ただ…君がひとりで出かけられて、仕事もしてて、日々が満たされてるのを見てると、俺の支え方も、少し変えられるんじゃないかって思ったんだ」

「…“支え方”?」

テリィはゆっくりうなずいた。


「これまでは、傍にいることそのものが助けになると思ってた。でも、もう“近くにいること”が唯一の方法じゃない気がしてる。君は、ちゃんと立ってる。ひとりで、ここまで来た」


スザナの目が揺れた。だが涙ではなく、思慮の色だった。

「…私を置いていく、ってこと?」

「それは違う」


テリィはまっすぐに言った。

「困ったときはいつでも連絡してほしい。助けが必要なら俺は行く。けど…これから先、君も“自分の時間”をもっと持つべきだと思う。俺も同じように、自分の人生を考え始めてる」


彼の目にはまるで“覚悟”がにじんでいた。


スザナはゆっくり息を吐いた。しばらく、カップを指でなぞるようにしていたが―やがて、ぽつりとつぶやく。テリィの静かな言葉が、カップのぬるいコーヒーよりずっと冷たく感じられた。


スザナは黙って彼を見ていた。

頷きもせず、目をそらすこともせず、ただ―心のどこかがゆっくりと麻痺していくような感覚。


「……それは、あなたの中で答えが出たってこと?」

「……」

「もう、私に確認なんてしなくても、決めてたんでしょう?」

「違う。決めつけてるわけじゃない。伝えたかっただけだ。今の俺の気持ちを」


スザナは一度、目を閉じた。

彼の声が、優しいことが、いちばんつらい。


「それって…私の返事次第で何かが変わる話じゃないわよね。もう、あなたは“その先”を見てるということでしょ」

ふいな話につい語気が強くなる。

テリィは否定しなかった。否定できなかった。


「…私ね、いつか、こういう日が来るかもしれないって、どこかで思ってたの。

でも、現実になったら、頭が真っ白になるものなのね」

苦笑とも、独り言ともつかない声が、テーブルの上にふわりと落ちた。


「“近くにいることが支えじゃない”って、あなたが言うのは正しいと思う。ほんとうに、そうだと思う。私も、歩けるようになって、ラジオの仕事をして…日々の中で、やっと、“自分の人生”に戻ってきた気がしてた」


そこまで言って、スザナは静かに笑った。

「でもね、テリィ。私、まだ“あなたのいない人生”を考えたことがないの」


テリィは言葉をなくしていた。

「…傍にいてくれている。それだけで、救われてるの」

彼女の声は、静かだったが、決して平坦ではなかった。


「頭ではわかるの。“このままじゃだめ”って」

「スザナ…」

「理解はしてるわ。納得もしてる。

でも、私はまだ、心があなたを手放す覚悟を持てていない。ごめんなさい―でも、それが正直な気持ちなの」


取り乱すことなく淡々と、なにか大きなものを堪えているような、張りつめた水面のように静かだった。


テリィはゆっくりとうなずいた。

「…わかった。ありがとう。正直に話してくれて」


スザナは、かすかに首をふった。

「たぶん、あなたは正しい。私たちは、少しずつ違う道を歩くべきなのかもしれない。

考えさせてくれる?私にはすぐに結論出せるほど簡単ではないから」

「ああ、もちろん」


しばらくの間、ふたりは黙って座っていた。

カフェの窓の外では、雨はやみ、夕方の光が街を淡く染めていた。


“いつかは”とわかっていた別れが、

“いま”になって目の前に現れる。

その痛みを、すぐに飲みこむことなど、誰にもできない。

でも、いつか心が追いつく日がくるだろうか。