アーチーの心に、怒りにも似た衝動がせり上がってきた。
「……なあ、一発、殴らせてくれないか」
その言葉と同時だった。
バシッ!
振りぬかれた拳がテリィの頬を捉え、彼の身体が大きくのけぞった。
背中がカウンターにぶつかり、その拍子に花瓶が床に落ち、ガラスが飛び散る。
「きゃーっ!!」
一瞬で店内が凍りつく。割れる音、ざわめき、鋭く走る視線。
店員が駆け寄り、騒然とした空気のなかで誰かが叫んだ。
「警察を!警察を呼んで!」
その声に反応するように、先ほどテリィとともにいた仲間たちが駆け戻ってくる。
彼の傍に寄り添い、支え起こした。
「警察は呼ばなくていい!」
テリィが、まだ唇から血をにじませながら叫んだ。
「……この人は、僕の、友人なんだ」
「本当ですか?」
「本当さ。古い友人に……ちょっと喧嘩を売ってしまって。ただ、それだけさ」
血を拭いながら、テリィはどこか冗談めかして片目をつむった。
その余裕に、店員はホッと安堵して電話を置いた。
店内は再びざわめく。「テリュース・グレアムだ」「本物?」という声が四方から湧く。
アーチーは、そのただなかで、呆然と立ち尽くしていた。
誰かが彼の腕を掴み、名前を呼ぶ。
「副社長! ご無事ですか!」
けれどアーチーの意識は、まるで霧の奥にあった。
自分がなにをしたのか。
なにを、背負ったのか。
ただ、ただ……眺めていた。
男が仕事に全力を尽くせるのは、ただ己の意思の強さだけではない。
そこに静かに寄り添い、日常を守り、時に見えない力となって支えてくれる誰かの存在があるからこそ。
アーチーは、結婚して初めてそれを知った。
家を整え、心を整え、言葉少なくとも支えてくれる人がそばにいることの重み。
仕事の成功も、社会的な信頼も、自分ひとりで成し遂げたつもりでいては、それは傲りだ。
アニーが、そうだった。
彼女は決して前に出ることなく、陰になり、日向になり、アーチーの歩みに寄り添ってくれている。
当然のように感じていたその支えの大きさが、今になって痛いほどわかる。
全力で働けるのは、支えてくれる誰かがいるから。
自分を信じて、信じさせてくれる誰かがいるから。
けれどその当然が、ふと胸の奥で引っかかった。
テリィのことだった。
あの男が、今や一流の俳優の仲間入りをし、あらゆる舞台で輝いているのは知っていた。
想像に難くない。
そこに至るまで、どれほどの努力と葛藤があったことか。
その道は、決して平坦ではなかったはずだ。
だがその背中を、支えていたのは。キャンディではなかったのも事実。
それが、どうしても引っかかる。
テリィがキャンディを選ばなかったことを、責めるつもりはない。
彼が手にした成功を妬む気持ちも、ない。
けれど。
彼のすぐそばにいて、あの道を共に歩いていたのがキャンディであったなら。
あの眩しさの一端をキャンディが担っていたなら。
そう思わずにはいられなかった。
あのとき、ニューヨークから戻ったキャンディの顔を、アーチーは今でも忘れられない。
あんなに傷ついた彼女の姿を見たのは、アンソニーを失ったあの日以来だった。
……いや、違う。
あの時以上だったのかもしれない。
人の死がどれほど深い悲しみをもたらすか、アーチーにもわかっている。
だが、生きている誰かに、心ごと手放されたときの痛みは……もしかすると、もっと残酷だ。
あのとき、キャンディはテリィに招かれて、ニューヨークへ向かった。
希望を抱いて、足を運んだ。
帰ってきた彼女は、何も言わなかった。ただ、ひどく静かだった。
だから、アーチーにはわかっていた。
何があったかなど、すべてを聞くまでもない。
かつてセントポール学院で、キャンディが理不尽に学生牢に入れられたとき。
あのとき、テリィは真正面から立ち向かった。
アーチーは内心、複雑な思いを抱えながらも、認めるしかなかった。
あの瞬間に、思ったのだ。
テリィならば、キャンディを任せられるかもしれない。
テリィならば、彼女を笑顔にしてくれるかもしれない。
キャンディならば、あの男を輝かせる光になれるのかもしれないと。
だが現実は、あの輝きの中に、キャンディはいなかった。
そのことが、どうしても割り切れなかった。
アーチーの胸には、未だに薄く沈殿したままの靄が残っていた。
それは怒りでも、嫉妬でもなく。
ただ、ひとつの「喪失感」だったのかもしれない。