『人間ぎらい』の公演期間中の話。
ある休演日の夜。キャンディはいつものように洗い物を終え、テーブルにノートと分厚い医学書を広げていた。
「……また勉強か?」
ソファから振り向いたテリィが、感心したように笑う。
「うん。来週の勉強会、テーマが“急性期対応”なの」
キャンディは顔を上げず、鉛筆の音を止めない。
「勉強熱心だな、ほんと……何年目だっけ、おまえ」
「八年目。そろそろ中堅って呼ばれる頃かな。でもね、何年やってても関係ないのよ。
医学も看護も日進月歩。知らないままでいるほうが怖いもの。
新人だろうとベテランだろうと、“いま”を学ばないと、取り残されるのよ」
その口調は、ごく当たり前のことを言っているだけ――そんな軽やかさだった。
でも、テリィの耳にはずしりと響いた。
――新人もベテランも、関係ない。
役を演じて、もう何年が経つだろう。
たくさんの演出家と向き合い、数えきれないステージを踏んだ。
そして、いつしか“代名詞”と呼ばれる作品にも出会った。
けれど。
最近は――本当に、がむしゃらに、向き合っていたか?
これが完成形だと、自分で線を引いて、そこで満足してしまっていたんじゃないか?
挑戦することから、逃げていなかったか?
「ありがとな」
ぽつりと、テリィは言った。
「え?」
顔を上げたキャンディが目をぱちくりさせる。
「なんか言った?」
「いや……なんでもないよ」
テリィはふっと笑って、キャンディの頭に手を伸ばす。
ぽん、と軽く撫でると、キャンディは子犬のように首をすくめた。
「ちょ、なによ。急に。言いたいことあるならちゃんと言ってよね?」
「そうだな。じゃあ、言わせてもらうか」
テリィは立ち上がり、後ろからそっとキャンディの肩を抱いた。
「俺は、まだ、進めそうだ。そう思わせてくれたのは、おまえの一言だった」
「え……? な、なによ、それ……」
キャンディの頬がほんのり赤くなる。
「気づいてなかっただろ? おまえのその“看護婦魂”が、芝居バカを目覚めさせてくれた」
「……えーと、どういたしまして?」
なんとも締まらない答えに、テリィは小さく笑った。
だけどその笑いには、いつか失いかけていた情熱の火が、確かに灯っていた。