ニューヨークの夏は重かった。
蒸した空気が肌にまとわりつき、ビルの谷間に溜まった熱気が、ゆっくりと人の心を削っていく。
午前7時。
ストラスフォード劇団の裏口に、ひときわ背の高い青年が姿を現した。
テリュース・グレアム。かつてロミオ役を務め、そして舞台を潰した男。
「…よく来たな」
重たい鉄の扉を開けてくれたのは、道具係のファロンだった。
短く、太い腕。かすれた声でそれだけ言って、ファロンは中に戻っていった。
歓迎されているとは思っていない。
でも、拒まれなかったことが、いまは十分だった。
再入団は許された。
だが、すぐに舞台に立てるわけではない。
団長は静かに言った。
「一年は下積みだ。汗をかき、汚れ、そして黙って芝居を見ろ。それができなければ、もう二度と舞台には立たせん」
当然だった。彼は一度、劇団を、舞台を、そして信頼を壊したのだから。
それを取り戻すには、言葉ではなく、日々で証明するしかなかった。
稽古場の片隅、数人の演者がうんざりした表情で道具を囲んでいた。
「この“古書”、またか…中身ただの白紙じゃん」
「表紙もペラペラ。図書館の本のほうがまだ重厚感あるっての」
その中央には、舞台で重要な役割を果たす“古書の小道具”。
だがそれは、見るからに安物のつくりで、しかも痛み始めていた。
テリィは稽古の合間に演出家の元へ向かった。
「お疲れ様です。小道具の本ですが、質感が安っぽくて芝居の雰囲気を損ねていると思います。お時間いただければ、手を入れてみたいのですが…」
演出家は眉をひそめた。
「時間もないし、どうせ客は気づかんさ」
だがテリィの真剣な眼差しに押されて、やがて呟いた。
「…おまえがそこまで言うなら、やってみろ。ただし、後で報告しろよ」
その許可を得てから、テリィは夜遅くまで舞台の小部屋で古書を手に取った。
革の表紙に焼き色をつけ、角を摩耗させ、ページには微細な染みを加える。
初めの見開きには手書きで「St. Alban College Library」という蔵書票も丁寧に貼り付けた。
翌朝。
通し稽古の最中、主演女優がその本を手にし、動きを止めた。
「…これ、本物みたい…」
演出家は驚きを隠せず、すぐにテリィを呼んだ。
「…おまえがやったのか?」
「はい。お約束通り報告に参りました」
演出家は小さく頷くと、無言でその場を去った。
その日から、舞台の空気はわずかに変わった。
誰にも気づかれぬまま、しかし確かに。
倉庫の整理、背景の布地運び、照明のケーブル巻き、道具の補修――
朝から晩まで、テリィは誰より早く来て、最後まで残った。
若手の劇団員たちの中には、彼を遠巻きに見る者もいた。
軽蔑、嫉妬、あるいは好奇心。
だがテリィは、それに背を向けるでも、向き合うでもなく、黙って働いた。
ある日、稽古中の演者がステージでつまずいた。
「次!」と演出家の声が響き、皆が立ち止まる中、テリィはそっと袖の影から、台本の一節を呟いた。
「…それでも、おまえが行くというのなら、この命、風に投げよう。ロザリンド」
その声に、一瞬、稽古場が静まり返った。
演出家が目を上げ、若手が息を呑んだ。
だがテリィはすぐに黙り、用具箱に戻っていった。
まるで何もなかったかのように。
(出過ぎた真似だったか…)
だがその夜、演出補佐がこっそり彼に言った。
「…あの一節、助かったよ。あいつ、本番でよく飛ばすんだ」
「そうですか」
「俺は、おまえがここに戻ってきた意味を、見てるつもりだ」
その言葉は、誰よりも優しかった。