午前の稽古が終わり、昼休憩に入った。
スザナは、稽古場の隅の長椅子に腰を下ろし、サンドウィッチの包み紙をゆっくり開いた。
義足の脚を少し外に投げ出し、右手の杖をそっと膝に乗せる。
そのとき、またあの若い女優――ソフィアが、恐る恐る近づいてきた。
「あの……マーロウさん、さっきの稽古……見ていて、なにか、思ったことがあれば、教えていただけませんか?」
彼女の瞳には不安と決意が混ざっていた。
スザナは包み紙を丁寧に折りたたんでから、にこりと笑って言った。
「ええ。ひとつだけ。
“未来が怖い”って台詞を言うとき、あなたの視線が舞台の奥を向いてたわ」
「……はい」
「でも、ジェーンが怖いのは、“明日”じゃなくて、“今”なの。だったら、あなたの視線は、“ここ”を見てないと」
ソフィアは目を見開いたまま、黙っていた。
だがその頬は、確かに赤くなっていた。
「ありがとうございます。……明日、やってみます!」
そう言って去っていく彼女の背を、スザナは静かに見つめた。
マデリーンが肩を竦めて近づいてくる。
「……やっぱり、ただの“語り手”じゃないですよね、スザナさん」
「……ただの、で終われるなら、どんなに楽かしらね」
そう言いながらも、スザナの唇の端は、微かに上がっていた。
午後の稽古が終わると、劇場内にはぽつりぽつりと私語が戻ってきた。
積み上げられた小道具の隙間から、外の暮れかけた空が見える。夕方のマンハッタンは、冬の冷気が残る静けさに包まれていた。
スザナは、そっと杖を手にして立ち上がった。
義足の足は冷えやすく、床の硬さがじわじわと膝に響いてくる。
すると、そばで台本をまとめていた若手の女優ーーソフィアが、ひとつ深呼吸してから近づいてきた。おずおずとスザナのそばにしゃがむ。
「……あの、椅子、お持ちしましょうか?」
その声は、決して同情から出たものではなかった。ただ、彼女の中にある“うまく接したいけどわからない”という真っ直ぐな不器用さが滲んでいた。
スザナは一拍おいてから、やわらかく笑った。
「ありがとう。でも、ここは大丈夫。……ねえ、私の足、気になる?」
若い女優は、はっとした顔をして首を振った。けれど目は、明らかに動揺を浮かべている。
「いいのよ、無理に否定しなくて。私も最初は、誰かの視線に慣れるまで、時間がかかったから」
その言葉に、女優は少しだけ安心したように目を伏せた。
「……失礼だったら、ごめんなさい。初めて見たんです、義足の方が劇場にいらっしゃるの。なんだか、こう……怖いとかじゃなくて、すごく堂々としていて。でも触れちゃいけないような気がして」
ーースザナは、
『私は足の怪我で義足を付けています。訓練して普通の人並みに歩けるようになっていますが、調子の良くないときもありまして…動きが遅く、ご迷惑をおかけすることもありますが、どうぞよろしくお願いします』と皆の前で挨拶していたのだ。
スザナはソフィアの言葉に少し空を見上げた。
「堂々、ね。……ほんとはまだ緊張するのよ。特にこの劇場は今日が初めてだし。だから余計に、足音に敏感になってる。ひとつ踏み外したら、また自分が“見られる側”に戻ってしまいそうで」
そのやりとりを遠くから見ていたマデリーンが、鞄を肩に引っ掛けながら近づいてきた。
「スザナさん、送りますよ。……今日は、バス通りまで?」
「ありがとう。ちょっとだけ、外の空気を吸いたくて。……歩ける距離よ」
「じゃあ、少し寄り道しましょ。公園の横、あそこ、日が沈むと街灯が灯ってきれいなの」
稽古場を出た2人は、コートの襟を立てながら静かに歩いた。
空気はすっと肺に冷たく、でもどこか心地よい。
「演出家のハロルドさんが、渡した台本見ながら言ってましたよ。“あのスザナ・マーロウ? ストラトフォードの?”って」
スザナは驚いたように振り向いた。
「……気づいたの?もう忘れられてると思ってた」
「ハロルドさんの言葉で私スザナさんのこと少し調べたんです。スザナさん、すごい人なんですね、どうりであの“沈黙”のところをセリフにできるだけの感性があるはずだわ。」
マデリーンはキラキラした羨望の眼差しをスザナに向けていた。
「私はすごくなんかないわよ」
「いいえ!あのストラトフォード劇場は、わたしたち舞台人にとっては聖地なんですよ?
“ストラトフォードの舞台に立っていた”なんて、ニューヨークじゃそれだけで伝説級ですから」
マデリーンの声には、軽口のようでいて、はっきりと敬意があった。
「でも、伝説ってのは少し古びた響きね。もう、そこには立てないから」
「……なら、新しい物語を紡ぎましょ。伝説は“終わった物語”だけど、あなたが今日ここにいて、脚本に息を吹き込んでるのは、“まだ始まってる物語”ですもの」
スザナは思わず立ち止まり、笑った。
「あなた、言うことがきれいね。どこで覚えたの?」
「父が昔、新聞の文芸欄書いてたんです。毎日、例え話と皮肉ばっかり。嫌でも耳に残る」
そう言ってマデリーンは笑った。その表情は、朝よりも少しだけやわらかくなっていた。
ふたりの足音が、舗道の石畳に規則正しく響く。
見上げれば、街灯がゆっくりと灯り始める時刻。
小さな街の光が、静かにスザナの横顔を照らした。
稽古三日目の午後、雪の予報を裏切るように、マンハッタンの空にはわずかな陽射しが差していた。
舞台の装置が一時的に動かされ、照明も落とされた稽古場は、まるで閉じ込められた小劇場のようだった。
スザナは舞台袖の影に立ち、静かに台本をめくっていた。左手には杖。右手は、台本の紙をそっと押さえていた。
その様子を、マデリーンが背後からじっと見つめていた。
「……どう? ここのシーン、わかりにくくない?」
マデリーンがぽつりと声をかけた。
スザナは振り向かずに微笑んだ。
「ちょっと感情の流れが速いわね。でも、言葉は好きよ。あの台詞、“愛とは、声を持たない灯火”って――ドラマの時にはなかった台詞よね。古くさいけど、なぜか刺さるわ」
「良かった〜、そう言ってくれて。あれ書いたの、わたし。しかも夜中の3時」
「まあ!3時?!」
そう言ってマデリーンはスザナの隣に腰を下ろした。
並ぶ影が床に落ちる。互いの距離は、以前より少しだけ近かった。