ロンドンの夜は静かに霧をまとい、ケンジントンのタウンハウスにも暖炉の火が優しく揺れていた。

書斎のソファに深く腰を下ろし、テリィは封蝋の切れたSMTの書簡をテーブルに置いた。


その劇団の名を知らぬ者は、演劇の世界にはいない。シェイクスピア・メモリアル・シアター。

シェイクスピアの生地に根を下ろし、何世代にもわたって英国演劇の中核を担ってきた、由緒ある劇団だ。

ここは、新人の登竜門はない。流行に迎合する舞台でもない。歴史と伝統の名のもとに、「舞台に立つに足る者だけが立つ場所」として知られていた。

その舞台に立つ俳優たちは、単に演技が巧いだけでは足りない。

声、所作、言葉の重み、沈黙の使い方。

シェイクスピアの言葉を“演じる”のではなく、“生きる”ことが求められる。

だからこそ、SMTが俳優を招聘するということは、それだけで一種の評価であり、保証でもあった。

もちろん、長い歴史の中で、貴族や財界人といったパトロンたちの支援が舞台を支えてきたのも事実だ。だが、SMTが誇りとして守り続けてきたのは、ただ一つ。

舞台に立つ理由を、血筋や後ろ盾に求めないこと。

推薦があろうと、名が知られていようと、最後に問われるのは、舞台の上で何を見せるか。

それだけだった。

テリュース・グレアムが、この劇団に招聘されたのは、その厳しい基準を、ただ一つの方法で越えたからだ。

それは、演技だ。

誰の名も借りず、誰の力も頼らず、彼はただ、舞台の上で答えを示した。

そしてSMTは、それを見逃さなかった。

向かいではケビンが、湯気の立つマグを手にしている。

「……で、どういうことだ?おまえ、あのストラトフォードに“呼ばれた”って?」

「呼ばれた。正式に、だ」

テリィが穏やかに言うと、ケビンは目をまん丸にして口をぽかんと開けた。

「まじかぁ……!すごいじゃないか、テリィ!!」

そして、勢いよくソファに背を投げた。

「SMTだぜ!?世界で一番のシェイクスピア劇!テリィ、おまえ……ついに……!」

興奮するケビンを見て、テリィもふっと笑った。

「そうだな。やっと、ここまで来たって感じだ」

二人の間に、熱と静けさの混じった余韻が流れる。

だがケビンは、ふいに何かを思い出したように眉をひそめた。

「……でもよ、テリィ。それって、俺はこれからどうなるんだ? 一緒に行けるわけないし……マネージャーとしてならいいか」

「いや、行けるに決まってるだろ」

即答だった。

ケビンは一瞬固まった。

「ど、どういうことだ?」

「ローレンス監督も、おまえのこと気に入ってるとのことだ。“俺たち”を招きたいそうだ」

テリィはマグの紅茶をひと口飲み、落ち着いた声で、でも楽しげに続けた。

「そろそろマネージャーも一人ぐらい雇わないとならないな」

「そうだな。アレックスのところにも問い合わせが何件かあったというし」

重苦しいロンドンの霧の中でも、この部屋は明るかった。

暖炉の火がぱちりと弾けた瞬間、テリィはふと遠くを見るような目になった。

「……しかし、終わってみれば、あの“ロンドン対SMT”の騒ぎも、よく落ち着いたよな」

ケビンが頷く。

「ほんとだぜ。街中が煽られて、観客まで二派に分かれちまったけど……最終的には結局、どっちのハムレットも愛されてた。演劇が好きだからこそ、あんな大騒ぎになったんだろうな」

テリィは微笑んだ。

「敵対じゃなくて、競い合っただけだ。あの熱狂があったからこそ、互いの劇団も成長した。結果だけ見れば……悪くない“戦い”だった」

火の明かりが二人の横顔を照らし、その穏やかな影が壁に揺れた。


ふとケビンは真面目な顔になった。

「……ところでテリィ。そろそろ俺、ロンドンに家を借りないとな。メアリと子どもたち、早く呼びたいし」

テリィは「そうなると思っていた」という顔で頷いた。

「それならひとつ、話がある」

ケビンが目を瞬かせる。

「父上に“使っていない屋敷はないか”と確認していたんだ。郊外にあるそれなりの屋敷で庭もある」

「屋敷?」

ケビンの声が裏返る。

「屋敷って……おい……俺はただ、普通の借家で――」

「借家よりは、ずっと安全だ。それに、あそこは俺が子どもの頃に少しだけ使った家だ。悪くない場所だぞ」

ケビンは頭を抱えた。

「まじかよ……普通にロンドンに住むつもりが……

 気づいたら貴族の屋敷に住むのか、俺……?」

テリィは肩をすくめた。

「気にするな。所詮、使っていない家だ」

「所詮じゃねぇよ!!」

再び笑いが弾けた。


ケビンはしばらく黙り、暖炉の火をじっと見つめたあとで、少しだけ声を落とした。

「ありがとうな、テリィ。おまえと一緒に、ここまで来れてよかったよ」

テリィは照れたように鼻を鳴らした。

「こっちこそ。おまえがいてくれて、どれほど助かったか」

「おい、俺を泣かす気か?!」

「助かったと言っただけで泣くのか?」

ケビンは照れ笑い、そして静かに頷いた。


ロンドンの夜の外には雪が降る。

しかしタウンハウスの中には、二人の未来を照らす暖かな火が燃え続けていた。