春の夜気を帯びたロンドンは、石畳に灯を揺らしながら社交の季節を迎えていた。
歴史を刻んだウェストフィールド伯爵邸では、この日も多くの貴族・政治家・文化人が集い、シャンデリアの光が絢爛と会場を照らしていた。
テリィは舞台の稽古後に合流する予定で、キャンディは先に一人で会場に招かれていた。
(大丈夫……落ち着けばいいのよ、私)
英国生活にも慣れつつあったが、こうした正式な夜会はまだ数えるほどしか出ていない。
深呼吸して会場へ一歩踏み出すと、さっそく何人かの夫人が挨拶を寄せてきた。
「まあ、ごきげんよう。グランチェスター公爵家の若奥様ね?」
「お噂はかねがね……ロンドンへようこそ」
温かい言葉も多い。キャンディは一人ひとりに丁寧に返礼し、ほっと微笑んだ。
だが。やがて、人ごみの向こうから、ひとつの視線が、じっと絡みつくように近づいてきた。
「……まあ。あなたが、公爵家の若奥様?」
凛とした声が背後から落ちた。
振り向くと、青いドレスを纏い、鮮やかな金髪を結い上げた一人の婦人が立っていた。
端正で、どこか誇り高い雰囲気。キャンディは少し気後れしたが微笑んで会釈する。
「はい、キャンディスと申します。あの……?」
「イザベラ・コールフィールドと申しますわ。テリュースとは、子どもの頃に何度かご一緒していたの」
にこやかな笑み。しかし、その目の奥には冷たい光が宿っていた。しかも何の前触れもなく、夫をファーストネームで呼び捨てにする。あたかも特別な関係だったと匂わせるように。
(……この人、なにか……)
「奥様、ロンドンに来られてまだ日が浅いのでしょう?でもご安心を。私たちが正しい振る舞いを教えて差し上げますわ」
唐突で、どこか上からの物言い。キャンディは戸惑いながらも、
「ありがとうございます。慣れないことばかりで……」
と素直に頷いた。その瞬間、イザベラの唇が、わずかに嘲笑の形を描いた。
「まあ、素直でいらして可愛らしいのね。……ですが、さきほどのご挨拶、少し声が大きすぎましたわよ?あとは、カップの持ち方も……その、少し田舎風でしたわ」
周囲の女性たちがちらりとキャンディに視線を向ける。
イザベラの声は、わざと周囲に届くようなトーンだった。
キャンディの胸がきゅっと縮まる。
(私……失礼だったのかな)
「それに、そのドレスも素敵だけれど……今夜の趣旨には少しカジュアルかしら。まあ、仕方ないわね。アメリカからいらしたのでしょう?」
周囲の空気が、微かに波立った。イザベラは満足げに微笑んで、さらに言葉を続ける。
「テリュースは……昔、とても私に懐いていたのよ。あなたよりも、ずっとね」
その声にはっきりとした優越が滲んでいた。
キャンディの胸には理解できない痛みが走る。
だが、必死に笑みを保つ。
「……そう、だったのですね」
イザベラは、勝ち誇ったように顎を上げた。イザベラの脳裏には、テリィが十三歳だった遠い夏の夜会がよみがえっていた。
あの時はそんなに興味もなかった。
でも、彼があれほどの俳優になり、世界的な人気を得てから……。
彼女はある英国俳優に熱を上げ、舞台界隈の噂や情報を集めるようになった。
その中で、ニューヨークで成功したテリュース・グレアムの記事を目にする。
洗練された姿、燃えるような瞳、圧倒的な存在感を放つ写真。
(……あの時、私が本当に手を伸ばしていれば。いま隣に立っているのは私だったかもしれない)
嫉妬、後悔、叶わなかった虚栄。そのすべてが、今日のキャンディへ向けられていた。
「まあ奥様、そんな風に取り乱しては」
イザベラがあざ笑うように声を上げた瞬間。会場の入口がざわめいた。
黒のタキシード姿、舞台の熱をまだわずかに纏った男が現れた。
会場の視線が一斉にテリィへ注がれる。
そしてテリィは、騒然とした空気を一瞬で読むと、視線の先にいる二人を見つけた。
キャンディの険しい表情、イザベラの薄い笑み。
状況を悟るのに、時間はかからなかった。
テリィは音もなく二人の間に歩み寄る。
イザベラがにこやかに呼びかける。
「あら、テリュース。随分久しぶりね。まさか私のこと、忘れていないでしょう?」
テリィは彼女を一瞥した。しかし表情は冷ややかだった。
「……どなたでしょうか?」
イザベラの顔がわずかに引きつる。
「まあ……テリュース、冗談でしょう? 昔は――」
その瞬間、テリィの声が鋭く割り込んだ。
「妻を困らせるために、馴れ馴れしく名を呼ぶな!」
会場が凍りついた。
テリィが女性に対して声を荒げるなど、誰も見たことがない。
イザベラは蒼白になる。
「な……なによ。あなた、昔は――」
「あぁ……思い出したよ。イザベラ・コールフィールド」
テリィの瞳は冷光を帯びていた。
「君が俺に近づいた理由も、壁越しに聞いた本音も、今思い出した」
イザベラの唇が震える。
「テリュース、違うのよ。子どもの頃のことだわ、あれは――」
「その子どもの頃の欺瞞で、俺は長く人間不信になった」
テリィはキャンディの肩へそっと手を置く。
「俺の妻を傷つけることは、誰であろうと許さない」
イザベラの顔から血の気が引いていく。
「テリュース……私、ただ……」
「君と妻を、同列に語るな。忠告しておく。彼女を侮辱することは、俺の魂を侮辱するのと同じだということを」
しん、と舞踏会場が静まり返った。
重い沈黙の中で、テリィの言葉だけが鋭く響いた。
イザベラは震える指で扇を握りしめ、周囲の視線に押されるように後ずさった。
「……そう。あなたは……もう、あの頃の坊ちゃまじゃないのね」
嗤うでも泣くでもなく、ただ虚ろな声だった。
やがて、ゆっくりと人混みの中へ消えていく。
誰も彼女を追わなかった。
イザベラが去り、ようやく空気が戻ると、テリィはキャンディの顔を覗き込んだ。
「……大丈夫か?」
キャンディは小さく頷き、胸に溜まっていたものが静かにほどけていくのを感じた。
「あなた……怒ってくれたの?」
「当然だ。俺は、何よりきみを守りたい」
キャンディは涙が滲むのを必死にこらえた。
「テリィ……ありがとう」
テリィは、会場の視線も憚らず、キャンディの手をしっかりと握った。
「行こう。ここは、もう俺たちのいる場所じゃない」
その言葉には、かつて名前しか見られなかった少年の面影は微塵もなく、ただ、“妻を愛し、守る男”の確かな力だけがそこにあった。