Recover my heart, change the world. -19ページ目

Recover my heart, change the world.

日々の思想、小説、詩、エッセイ、悟り、妄想、体験、揺れる気持ち、音楽など、私の表現です。


高度に発達した通信技術、携帯電話、IT革命、産業、インターネットによって、

我々は自らが発する言葉、映像や文字であるところの表現を、移動を伴わずに行うことが可能になった。

情報や知識もまた、現存する過去の新聞や図書館、教師や知識人に問うことなく、

データーベースにアクセスすることによって情報収集可能である。

つまり、現代社会といわれる空間は、

各個人が多様な知識を持つことが可能であるし、専門を極めることもまた可能。

各個人が研究によって蓄積したデーターやスキルを表現することも可能という、

超次元的な社会であることをあらためて脳内に自覚すること。



今のところ、インターネットを利用した私のこういった文章によって、

インターネット社会のポジティブな側面を説明というか紹介してみてはいるのだけれど、

問題点が在るような気がしていたので、これからはネガティブな側面を改行して説明ないし紹介してみる。



100%正しい、ということは、

学問の世界においても該当しないケースが存在しているし、

本当に歴史を極めて習得した様々なデーターと、紆余曲折や想定外を全てミクスチャーした経験によって、

最終的に出力される情報、といえども、100%に限りなく近いが、100%では無い。

ましてや、そんな時間的余裕も精神的ゆとりも脳内メモリーも肉体的強度も誇っていない人が、

私含め殆どだと思われる為、

各個人のコンディションによって能力均衡が保たれない可能性が存在する。




俺が一体、何が言いたいのか、ということですね。


ネットであろうが、リアルであろうが

情報が100%正しい保証が無い、ということです。

その信憑性を常に疑っていかないと、

時には事故につながったり傷害を負ってしまいかねない場合があるということです、

ただ、それを深く考え過ぎると、人間不信に陥ってしまうので、

目の前に現れた情報を、自分が信じるかどうかという判断については、

自分の精神性に頼って良いかと思います。

というわけで、

私は好きな音楽だったり映画だったり文章だったりは、

良いと思ったら、割と信じています。

それをもし、他の人も良いと感じていたなら、100%に限りなく近くなっていると言えるでしょう。



嘘や虚を演じていたり、残していたりしたところで、

最終的に跳ね返ってくるのは自分自身であります。

例:窃盗や殺生を行った場合、瞬間は甘美でも、最終的に後悔します。



ここまで書いたので、知識と経験により、私の100%に限りなく近い情報を一つ提供します。



現在の環境により、現役中学生と話をする機会があるのですが、

若い時は色々やんちゃなことをしたいという気持ちがあるのは存じております。

何故そういった気持ちになるのかについての分析は今回は致しませんが、

そういった行動が非行的にどうしてもなりがちで、しばしば世間や親にダメージを影響します。



ある女子中学生が、私に、

「刺青をいれたい」

と申してきました。

私は彫師でありませんが、

初めて刺青を刻んだのは、高校生の頃でした。

諸事情あって、どうしようもなくなっていた時代でした。



刺青、タトゥー、入れ墨、

言い方は異なりますが、全て同じことです。

歴史によると、日本では江戸時代から刺青の文化があったとされています。

外国では民族衣装や宗教によって、遥か昔から存在していました。

ピアス等も、同時に含まれています。

時代が流れていくと比較的、香具師、やくざの方々が入れているものと認識され、(特に和彫のものが)

イレズミ、イコール、ヤクザ、

のイメージに繋がりやすいのはその為です。



良く聞かれる、針を入れている時の痛さについてですが、

結論から言いますと、「耐えられる激痛」です。

痛覚については個人差があると思いますが、

針を肌に刺して、引っ掻いている傷付けている動作を行っている訳ですから、

相応の痛みはあります。

ただし、麻酔が必要な程の痛みでは無く、

1時間もすれば慣れてきて、さほど気にならなくなります。


個人的には施術している時の痛みよりも、

終わった後、傷が瘡蓋になって完治していくまで一ヶ月間、

痒くてどうしようもないのに、絶対に掻いてはいけないという状況の方が、

よっぽど生き地獄でした。

この時薬を毎日塗るのですが、「オロナイン」は痒みも抑えてくれるので御薦めです。



とりあえずその子には、


入れないほうがいい。

絶対に後悔しない自信があって、あと3年経って、

どうしようもならなくなったら、また相談しろ。


と言っておきました。



これからも私の経験に基づく100%に限りなく近い情報を提供してみたいと思います。


腐れども 自己満足を 繰り返し 

真の想いは 君に届かず


油断が許されない。

一瞬の油断によって人間性を非難されたり評価を下されたりもする。

気の迷いは死を招く。

余裕をつくる余裕などあり得ない。

余裕をつくるためには余裕をつくならければならない。

永遠にスパイラルしていかなければならない。

循環の何処かに終止符を打ち続けろ。

しなければならない、マスト、

強制的行為、絶対主義、権力主義、

法律性。

君主論。




俺がどんなに活躍したとしても

君に想いは届かず。

それだから、自慢や自信を表したり誇っていたりしなければならないが、

それは大変疲れる。

毎日、繰り返さなければならないと思うと、憂鬱になる。

繰り返しではないと、思える精神状態に時々はなるけれど。



このまま、生きていて良いんですか。

肉体の生と精神の生は大変違ってきます。

もう人間関係も壊したくないし、環境破壊もしたくないんで、

私一人が突然消えてしまったところで、

CO2削減に役立つ自信も無いけれど、

どうか、私にプレッシャーを与えないで下さい。

それが現実打破する為に必要な要素であることは、実は知っているけれど。




ははは。

笑ってみる。



泣いてみる。

つまらない。




常に、脳内を、煙草で、酒で、麻薬で、満たしておかないと、

気が済まない、ので、

我々はその行為によってもたらされる効果を知っているから繰り返す。

あと数十秒後の自分の行く末の保証等何処にも存在しないから。

麻痺っていたほうが、

その瞬間は忘れられる、気楽になれる、ありがとう。

思うところ、生活はゆるやかに流れていきます。

学んだ記憶、システムは少しずつ変わっていきます。

ご存知の通り、時間を止めることも出来なければ旅行することもまだ不可能。

もしかすると永遠に不可能。

まだって言葉を置いている時点で、それが実現することに対してまだ希望を捨ててはいない証拠が露呈。

分からないですよね、そもそも、

永遠とは何ですか?


何時の時点から存在するかを推し量れない過去から有る、
元元・本来ある、またはある時点から存在している、
いずれであってもそれらが過去から現在に、
さらに際限のない未来へと不変の状態や形式で無限に存在し続けること。



永遠という言葉はファンタジー系の創作物に良く使われます。

あとは結婚式とかで、「~永遠の愛をチカイマスカ?」という台詞を聞いたことが有ります。


それで、

我々が永遠の時間を生き続けることは現在不可能であります。

従って、永遠という単語や概念については完全理解していたとしても、

永遠を肌で感じることは出来ません。

どんなに努力しても、永遠を手にすることは出来ないのです。

良くて実際は、永遠という言葉や概念による、「少しばかり長い時間」となります。

それで永遠を感じられるのですから、我々はどうしても単純なのかもしれません。

そんなことはどうでも良いことですよね。


今のところ、「生きている」ことは永遠では無いとしたら、

「死ぬ」ことは「永遠」なのでしょうか。

私の記憶は彼方へ消え去ってしまった、もしくは脱落してしまっただけなのかもしれませんが、

きっと、他の方々も一緒だと思いますが、

私は「私」として、選択して産まれてきた訳では御座いません。

気がついたら、この世界が存在していて、

自分の名前が付けられていて、

色があって、ベッドがあって、言語があって、

当時は両親がいて、呼吸があって、自分の身体があって、

生理があって、行動があって、「思う」ことがあって、

何で、

ここにいるんだろう?

と1年の内、2~3回くらいは真剣に考え込んでしまう習慣があります。


上記は一応、「日本」という国に産まれ、

しかも比較的人口が集中している都市の、経済豊かな環境で誕生した場合であった為、

幾度か命の危険こそありましたが、無事にここまで成長してこれた訳であります。

それがまた、全然違った状況や環境になれば、結果は変わっていくのであります。

前述の通り、産まれた状況全て、自分で選択したきた訳では無いということでありまして、

私のケースは、この世界で言うところの、「運」が良かった、ということになりますでしょうか。



自分が生きていることに対して、違和感が生じてくることがあって、

それがもし、生きていることが終了した時、

私は「どうなってしまうのか」

生きている状態で、目を瞑っていても、画面は真っ暗ですが考えることは出来ます。

全ての感覚を失い、記憶を失い、思考することも出来なくなる。

そこには何も無い。在るとするならば、無のみ。

考えることが出来ない、というのは物凄い恐怖であることに気付きます。

そう考えると、最近問題になっている「脳死」問題が、

どれだけ微妙で取り扱いの厳しい内容になってくるか検討出来ますが、

生物としての「死」でありませんが、精神としての「死」でありますでしょう。


有名なことですがインドなどの宗教では輪廻転生という概念があって、

生まれ変わることを幾多に渡って繰り返されることが信じられています。

これは「死」への恐怖から逃れる、もしくは恐怖を軽減する為に考えたのではないか、と

思っていたことがあります。

宗教は目に見えないことだらけなので、私は宗教に属しません。

実際あるのかどうか分かりません。

証明する行為が誰にも行えないからです。

したと言っても、胡散臭くなるだけなのです。



こんなことを書いて、睡眠の時間を削除。

雨が止んで欲しいので、祈りを捧げてみようと思ったが、

おれは無宗教だった。

何に対して祈りを捧げれば良いのだろうか。