全盲の障害である辻井伸之さんが国際コンクールで優勝しましたね、おめでとうございます。
さて、音楽を突き詰めていくと、
どうしても早さだったり、手数の多さだったり、音符の細かさばかりを追い掛けてしまい、
音楽そのものの本質を見失うことがあります。
早く演奏できたり、難曲を演奏する主義というか、
スーパープレー、技巧主義ともいえる、
音楽であることの本来の意義を見失って、ただ演奏するスポーツ、運動に終止してしまう。
勿論、演奏する技巧が優れていることに越したことはありませんが、
客観的に聴いた時に、「音楽」では無くして単なる「音の羅列」になってしまっては、
それは雲泥の差があります。
非常に早い話をすると、何回でも体験したい音楽、曲、漫才、伝統芸能、絵画、文芸等、
ただ1回で終わるものでは無く、永劫に続いていく持続性というものが、
本質的に「良い」ものに備わっているのでは無いかと考えます。
すぐに飽きてしまうのは、それだけの魅力しかないということで、
美人は3日で~の下りがあるように、美人であるからこそ内容が伴わなければ、
精神世界は生き残っていけんのです、と思います。
複雑な展開、他調性、極限まで細分化された音符、混合不況和音、非接合和音進行、
ジャズにおいて、瞬間における作曲構築作業と、
クラシックにおいて、事前に敷かれる音の配置処理作業とは、
方法論は違えど、目的は「音楽の成立」であることに変わりは無く、
その辺りの葛藤を打破せんとする現代音楽の研究を自主的に行っていた時代がありました。
やはり実験性の強い音楽は、どうしても「音」に成らざるを得ない。
と思えばギターという楽器は割と、目茶苦茶に撥弦しても「音楽」になってしまう傾向がありまして、
ギターの音では所詮ギターの音の限界点が生じている訳でありまして、
そういった「音楽」への反動が、反骨精神並びにアバンギャルドな体制に繋がっていると信じておりまして、
デレクベイリーというギタリストは、とにかくギターを「音楽」では無く強制的に「音」として捉えさせる精神活動を
行っていたのだと思います、著書を読むと具体的によく分かります。
さて、現代音楽等と、
色々ぐちゃぐちゃわけわからんなく聴いていると、
はっとさせたれた瞬間が御座いました。
それがエリック・サティでした。
この人の作風も非常にアバンギャルドで、
時代と共に培ってきたクラシックの歴史に対して反抗というか。
パンクなアティテュードを持った作曲家と思います。
脚色的な、豪華絢爛主義な、俗に「浪漫」なイメージが付纏うクラシック西洋音楽を、
極めて素朴な、強制的に聴かせるのでは無く、自然に流れている音楽と。
音楽というものは時に、聴いている人を「強制」してしまうのです。
強制してしまっては何事も終わりなのです。何事も。
少ない和音、素朴だが故に耳に残るメロディー、決して外さないカウンターポイント。
じゃらじゃら飾らなくても、格好良いことを教えてくれる音楽だと思います。
隙間、というものは、大事ですね。。