一文字の重さと、現実からの乖離。 | Recover my heart, change the world.

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日々の思想、小説、詩、エッセイ、悟り、妄想、体験、揺れる気持ち、音楽など、私の表現です。


music。

音楽。

直訳すれば、音を楽しむ行為。

人によって、述語に相当する部分は変換されていく。

音によって、楽しませられる。

音を、楽しむことをする。

音を、楽しもうとする。

音を、楽しむ。

ここでいう楽しむ、は喜怒哀楽の「楽」の部分だけでは無い。

何故なら、音楽によって巻き起こされる感情は、楽しみだけではないのだから。

真に広い意味で何かを楽しむ行為をする時、

様々な感情や思想、大変な試行錯誤、失敗や後悔、挫折や絶望を繰り返して、

自分が費やした分のほんの少しだけでも、希望が見えてくれば、嬉しい。

それが楽しむ、ということだ。

「音楽」の「楽しむ」という言葉には、様々な意味が込められているように感じる。



本当に大変なのは、

音楽が「音」である場合。


「音」と「音楽」は違う。

明確な違いは何か。

両者に共通するのはどちらも紛れも無い「音」ということ。

単純な音だけなら、非音楽的であるサウンドということになる。

音はある一定の秩序の中で積み重なって、リズムが発生して、つながりが存在して、

それがこの世界でいう「音楽」となる。

最低限の音楽の定義とは何なのか?

それはアバンギャルドの研究者達が今も実験し続けている。


私の修論としては、

「音」が在るだけでは「音楽」にあらず。

「音」と「楽」の間には、

とんでもない努力が必要なのであって、

場合によっては音楽を諦めざるを得ない、

そうしたら、私は「音楽」を辞めて、「音」だけになるだろう。

「音」を「楽しませる」ことの難しさ、大変さ、気難しさ。


これにやっと、気付いた私は愚か者。


自分だけが楽しむ音楽というのは、時には必要なのかもしれないが、

孤独行為だし、いずれは無くなってしまう。

例え、自分の肉体が滅んでも、

自分の「音楽」が残っていれば、とても素晴らしい。

それを確かめられないのは残念だが。


自分だけが持つ「なにか」に自信を持てるようになれたら、いいな。

私には、いまのところ、何も出来ない。