【首都直下型地震は熊本地震から5年±3年】

《日本列島は明治時代にも大地震が相次いでいた》

〈濃尾地震/1891年〉

〈明治三陸地震/1896年〉
(画像はネットから借用)

 ▶▶そして・・・・

 今から129年前(1894年)の6月20日、首都圏は壊滅の危機に直面していた。東京湾北部を震源にM7.0の大地震(明治東京地震)が発生したのだ。場所からして最悪の直下型地震である。幸い当時の湾岸一帯は大都会ではない。原風景の残る寒村であった。だから被害も限定的なもので済んだとはいえ現在なら恐ろしい結末を迎えることになるかも知れない。

 そもそも東京湾は地震の巣である。有史以来でも幾度となく大きな地震を引き起こしてきた。未知の断層を含めればまだまだあるのではなかろうか。

 古い話で恐縮だが、東京湾では1989年に巨大なサイレント(ゆっくり)地震が起きていたとして話題になった。確か、週刊誌だったと思うが、本震ならマグニチュード8.3から8.7に相当するという驚愕の内容であった。

〈究極のデマとして話題になった相楽氏の著書〉
(画像はネットから借用)

 当時は、お騒がせオジサンたる相楽正俊氏のデマ『富士山大爆発』から間がなく、ほとんどは「またか!」でしかなかったが、その後、東京上野の国立科学博物館で『ザ・地震展』が開催されるや様相は一変する。

 国の機関だけにデマは許されない。なんと会場に入ると、すぐ左手に、この地震に関する情報がパネルで大きく紹介されていたのだ。いの一番に、この展示からして、極めて深刻な事態であることを察することができる。

 大地震の前には、かなりの確率で、このサイレントアースクェイクが観測されるという。関東大震災も東日本大震災もそうだった。事後調査も多く公表は遅れるものの、ほぼ間違いなく起きていることだけは確かなようだ。

 東京湾では、この地震から、すでに34年が経過する。だが巨大地震の前触れに期限はない。34年など無いに等しい。東日本大震災に続いて小笠原近海での巨大な深発地震など、この日本列島のストレスの増すばかりにある。最早、いつあっても不思議でない、ということか。

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 2011年以降、毎年のように災害に見舞われる日本列島。水害に風害、猛暑に極寒と、その勢いはとどまる所を知らない。ことに地震はそうだ。この五月以後だけでも緊急地震速報のオンパレードにある。東日本大震災の余波とはいえ強弱を繰り返しつつ揺れ動く様は新たな危機までが迫っているようにも見える。首都直下型地震が囁かれて久しい。南関東(東京)は本当に大丈夫だろうか。

 過去にも似たケースはあった。1889年から1900年までの約12年間のことだ。意外に知られていないが、この時期にも(大地震は)下記の如く相次いでいた。

☆期間内に発生した大地震
★明治東京地震

☆1889年07月28日、熊本地震、M6.3
(熊本県一帯に被害。死者20名)

☆1891年10月28日、濃尾地震、M8.0
(内陸最大、震度7、死者行方不明7273名)

☆1892年12月09日、石川・富山で地震、M6.4
(津波有り、死者2名)

☆1893年06月04日、色丹島沖で地震、M7.7
(色丹島で2~3mの津波)

☆1894年03月22日、根室半島沖で地震、M7.9
(北海道・東北で津波被害。死者1名)

★1894年6月20日、明治東京地震、M7.0
(東京湾を震源に発生、死者31名)=別記

☆1894年10月22日、庄内地震、M7.0
(最大震度7、死者726名)

☆1895年01月18日、霞ヶ浦付近で地震、M7.2
(死者6名)

☆1896年06月15日、明治三陸地震、M8.5
(死者行方不明2万1959名と被害甚大)

☆1896年06月16日、三陸沖で地震、M7.5
(明治三陸地震で最大の余震)

☆1896年08月31日、陸羽地震、M7.2
(最大震度7、死者209名)

☆1897年02月20日、宮城県沖で地震、M7.4
(地割れ液状化で家屋の被害多数)

☆1897年08月05日、三陸沖で地震、M7.7
(宮城、岩手で津波による浸水被害)

☆1898年04月23日、宮城県沖地震、M7.2
(北海道から近畿で有感、岩手・宮城で浸水)

☆1898年09月01日、石垣島東方で地震、M7.0
(多良間島沖で発生)

☆1899年03月07日、紀伊大和地震、M7.0
(木ノ本、尾鷲で死者7名)

☆1899年11月25日、日向灘で地震、M7.0
(同日、M6.9も)

☆1900年05月12日、宮城県北部で地震、M7.0
(家屋被害大、死傷者17名)

 順序は異なるものの、三陸沖の巨大地震(明治三陸地震=東日本大震災)あり、熊本地震もある。そして日本各地を満遍なく襲っていることが分かる。この5月からは能登半島(石川県)でも強い地震が続いている。ならば、残るは内陸型で最大とされる濃尾(型)地震であり、近畿や北陸も警戒の域を出ない。ことに心配なのは首都直下型の典型といえる「明治東京地震」の再来であろう。この地震は熊本地震から5年後であることに注目して頂きたい。歴史を遡っても似た傾向にある。近年の熊本地震は2016年であった。

(過去の首都直下型地震)
(画像はネットから借用)
 
 恐らく東京湾を震源とする地震では有史以来でも最大規模ではなかろうか。影響は東京から横浜一帯に及び、死者31名、家屋損壊130棟のほか、当時としては東京で随一の高さを誇った12階建ての浅草凌雲閣の一部を崩壊させている。

(浅草にあった凌雲閣)
(ネット写真より)

 この地震では、樋口一葉が「水の上日記」、谷崎潤一郎が「幼少時代」の中で記しているように、隅田川や荒川、それに埼玉県の元荒川周辺にも液状化被害があったようだ。

 被害が小さかったのには理由がある。震源は東京湾北部と位置的には最悪だったものの、深さ40から80kmでの発生が幸いしたのだろう。しかも当時の東京は人口(密度)の上でも現在とは比べられないほど希薄であった。

 1894年、東京の人口は1.829.583人で現在の札幌より少なく、総人口(42.430.985人)に対する比率も約4%と低い。それが今では10%を超えた。湾岸一帯は次々と開発され京浜から京葉地区の臨海部だけでも300万人以上が居住している。

 もし同じ地震に遭遇したらどうなるだろうか。海岸線は埋め立てられ、この上だけでも当時の東京の人口を上回る人々が住んでいるのだ。東日本大震災では、これらの地域が液状化して深刻な被害を引き起こした。下町の住宅密集地帯も心配だが、こちらだって収拾はつくまい。

 明治東京地震以降、東京湾は我が国有数の工業地帯を生み、屈指の人口密度を誇る住宅地に変貌した。湾岸居住人口も約50倍に増えた。明治東京地震当時とは状況がまるで違う。インフラを含めた総てが砂上の楼閣なのだ。

 この先、6月から7月にかけては梅雨特有の豪雨災害の時期であり、そして台風シーズンの始まりでもある。だがやはり最大の懸念は地震であろう。首都・東京は迫り来る自然災害に耐え、これまで通りに我が国の中枢を担い続けることが出来るだろうか。

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《《御礼》》

 先月の記載、『エルニーニョ現象は(巨)大地震の前触れか』には、グーグルやヤフー検索を含め多数の方に目を通して頂きましたこと厚く御礼申し上げます。


 まだまだ未熟でお恥ずかしい内容ではございますが今後とも宜しくお願い致します。