当地(栃木県上三川町)生まれで創作折り紙作家の元祖でもある吉澤彰氏の没後15周年展が地元公民館で昨年末まで開かれていた。


 大都会?での催しに加えて、作品の多くが内外に流出してしまったのか、やや寂しいのは否めないが、その面影だけは知ることが出来る。


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《作品(1)》





 どこか色褪せて見えるのは相当な年代ものなのだろうか。

 (詳しくは昨年の記事にも載せています)
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《余談》

(再び緊急事態宣言発令の裏で)

 正月早々、近くに住む親族が倒れて緊急搬送された。コロナ渦の下では名古屋に住む義兄に続いて二人目である。40度近い発熱と元日でもあり、今度もまたたらい回しかと思われたが、その息子が医師ということもあって何とか入院だけはさせて貰えた。検査結果は陰性??とはいえ、もし受け入れ拒否なら、もし新型肺炎だったなら、どうなっていたやら。

 今回、教えられたことがある。勤務医であれ親にも面会出来ないってことだ。権益の保全かと思いきやそうでもない。他病棟からウイルスを持ち込むことで、スタッフや入院患者に感染させないためらしい。確かに理にかなってはいるが、どこか釈然としないのは何故だろうか。

 そもそも医者ってなんだろう。人を救うことから「先生」と呼ばれる。身を粉にして働き人命と向き合うなら当然の称号かも知れない。でも実際はそればかりでない。感染症病棟に於ける医療団の頑張りには敬意を表するものの、これとて少数派に過ぎない。大半は「患者が来ない。これでは潰れてしまう」とボヤいている病院や医師が如何に多いことか。発熱だけで診察を拒否する医者のどこか先生なのだろうか。

 コロナウイルスの蔓延が止まらない。変異型の登場もあって深刻な状況になりつつある。緊急事態宣言の再発令も視野に入る。米国でさえ医療崩壊の危機と騒ぎ始めた。日本はまだいい。あと数日以内にも死者数で中国を抜く勢いにあるアジアでは最悪の感染も欧米比では1/10にも満たない。病床の絶対数が不足しているわけでもない。なのにどうして医療崩壊の危機なのか。医療先進国も名ばかりで実際は世界屈指の後進国なら分からないでもないが。

 やはり、医者は「ステータス」で「特権階級」と崇め奉る国民性にも問題があるのではなかろうか。医は算術の悪徳医師でさえ、それでも呼び名は「先生」である。呼ばれる側も「自分は先生」と信じて疑わない。先生とは「信頼が置けて教えを乞うのに相応しい人物に対する最大の敬称」のはずだ。人命を救うなら、消防に警察、被災地で活躍する自衛隊員だって先生と呼ばれて然るべきであろうに、どうして・・。

 (最難関とされる医学部も実は・・)

イメージ 2

 (ネットより引用)

 選考方法にも問題がある。寄付金の差で合否を判定する入学試験にどんな意味があるのか。高い競争率も10校も20校も受験するからに他ならない。今や医歯学系であれ偏差値30台半ばの大学すらあるのだ。偏差値のことは良く分からないが、これは留学生を必死に集めて定員を満たすだけの新興大学と変わらないレベルだと聞く。学力を疑問視するものではない。成績の良し悪しに関係なく優秀な医師は沢山いるだろう。大学入試に医師国家試験と資質に欠ける者を合格させることが問題なのだ。結果、人命よりも、己の欲望を満たすことだけを優先する医師が大量に作られてゆく。

 今や世界各国で総動員体制にある。医者だけではない。医学部に在籍する学生までが現場に投入されている。日本の場合はどうだろう。同じ病院内ですら助け合わないのだ。これで良家の子息子女や二世三世の世襲医師が従うはずもあるまい。コロナウイルスに立ち向かうでもなく、ただ「患者が来ない、潰れそうだ」と嘆いている医者はもう要らない。親の財力だけで粗製乱造される医者も要らない。医者として相応しい資質の持ち主だけを養成して欲しいものだ。それが出来ないなら、もう『先生』なんて呼ぶのはやめよう。

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※現在、発熱で体調を崩した場合は「発熱外来」が窓口になるが、37.5度以上が3日以上続かないと診て(紹介して)貰えないらしい。初期なら「3日以上続いたらまた連絡下さい」になるという。発熱はコロナだけではない。重大な疾患が隠れていることだって多い。その間に急変したら、これも「自己責任」なのだろうか。発熱患者を拒否しても咎められない不思議な国・ニッポン。医療崩壊の足音が刻一刻と近付いてくる。