朗報です

新コロナウイルス感染防止のために

3月28日から閉園になっていた

花フェスタ記念公園が

今日午前9時から開園となりました

 

「春のバラまつり」のイベントなどはすべて中止ですが

春バラは見れるようです

但し、西駐車場の状況を見ての

入場制限があります

それと東駐車場は閉鎖ですので

東ゲートからは入場出来ません

 

ただ、残念なことに

今日は18時ぐらいまで

☂です

明日は晴れ曇りの天気ですが

バラに雨露が残っているので

慌てず、晴れた日の平日の空いた時間に

一度、園内の様子を見て来ようと思っています

天気予報を見ると

18日(月)、19日(火)も雨模様だし

ネタ記事もまだ毎日書いても

1週間分のストックがあるので

20日(水)以降になりそうかな(笑)

 

「花フェスタ記念公園」

http://www.hanafes.jp/hanafes/

http://www.hanafes.jp/hanafes/archives/7304

 

 

やっと、可成寺(かじょうじ)の記事です

下の説明看板に詳しく書いてありますが

可成寺は岐阜県可児市兼山にある

臨済宗妙心寺派の寺院で

森氏の菩提寺として知られています

 

元亀2年(1571年)に

美濃金山城主・森可成(よしなり)公が

滋賀県大津市の”宇佐山城の戦い”で死去したため

嫡子の森長可(ながよし)公が菩提寺として

美濃金山城の東にある”寺ヶ峰”に創建されました

森長可が創建した元・可成寺と信長の休石

 

その後、関ケ原の戦い以降、徳川家康の命で

末弟の森忠政(ただまさ)公は

信州国川中島(松代城)へ移転した際

現在地に移転しました

 

ここには森家公廟所があり

森可成・長可・蘭丸三兄弟・可行・可隆の

お墓があります

 

 

 

 

 

森三右エ門可成となっていますが

最近のものでは無いですがミスったようで

正しくは「森三左衛門可成(もりさんざえもんよしなり)」です

 

 

 

先月、美濃金山城で出会った女性軍に

「可成寺に行ったけど、蘭丸のお墓が分からなかった」と

言われました

 

という訳で道案内です(笑)

「本堂」を右に行くと

 

「鐘楼」と

 

「お堂」があり、その左に

 

塀のある「中門」があり

それをくぐると目の前に砂防壁に階段があります

 

その階段を上がり

※ここには平成13年に廃線となった

名鉄八百津線が走っていました

 

砂防壁を抜けて、左の石段を上がります

 

左手に階段状の古いお墓群があり

 

そこを抜けると目の前に

「森家公廟所」があります

 

「森家公廟所」

 

今回は蘭丸三兄弟のお墓のみで

次回に父・可成公他の方々の説明を

したいと思います

 

森蘭丸三兄弟の経歴などはまたの機会にして

省略しています

 

元々三兄弟のお墓(供養塔)は

美濃金山城山麓の隣り町になる

現・加茂郡八百津町伊岐津志中野にありました

ここは森軍の軍事施設のあった広大な広場です

本能寺の変の後、長野川中島にいた森長可は

急ぎ、美濃金山城に帰り

ここの場所で

一目千本卒塔婆を立て、沙門大衆の供養を受け

亡き三兄弟の弔うために金山近郷の僧侶を請じて

三兄弟の盛大な葬儀が執り行われました

ここには三兄弟の母・妙向尼(みょうこうに)さまが

連日供養に訪れたと伝わります

 

その後、時は経ち、G家によって供養塔は

守られて来ましたが

昭和42年

兼山の人々の嘆願もあり、G家も快諾され

現在の可成寺の森家公廟所に移転しました

 

本能寺の変の後、森蘭丸三兄弟の首級は

本能寺前に他の織田方の戦死者と共に

明智光秀軍により

本能寺前にさらし首にされたそうです

その後、三兄弟の遺体は

京都市上京区上寺町の「阿弥陀寺」の

住職・清玉上人が懇ろに葬ったともいわれます

 

「信長公記」によれば(現代訳版から)

信長公が

「さては謀反か いかなる者のしわざか」と

お尋ねになったところ

森乱(蘭丸・長定)が

「明智の手の者と思われます」と申し上げると

「やむおえない(是非もなし)」と

覚悟なされる

省略

また、御殿の中で討ち死にした人々は

森乱・森力(力丸)・森坊(坊丸)の兄弟三人・・・

と一級資料に書かれています

 

蘭丸を討ち取った安田国継(安田作兵衛)本人の

証言によれば

蘭丸は白小袖を着て修繕寺の平元結びで

髪を茶筅髷に結っていたといわれます

本能寺の変の江戸時代の歴史画に描かれた姿です

 

阿弥陀寺には5回ほど行ったことがありますが

写真と記事が見つからなくて

ここに載せれなくて済みません

 

阿弥陀寺の由緒によれば

清玉上人自らが本能寺に赴いて

信長の遺灰を持ち帰ったとも

信長の息子の信忠の遺骨も二条御新造より

拾い集めたともいわれます

ここには織田信長・信忠親子のお墓や

蘭丸三兄弟、織田軍の犠牲者のお墓もあります

「阿弥陀寺(あみだじ)」・・・京都ツウ本HPより

https://kyototwo.jp/post/attractions/10081/

 

「大徳寺三玄院」

ここは天正17年(1589年)に

浅野長政・石田三成・森忠政(蘭丸の弟)による創建

森忠政のお墓はありますが、蘭丸三兄弟は位牌のみです

慶長11年(1606年)4月2日に蘭丸三兄弟の25回忌法要が

慶長19年(1614年)6月2日に33回忌法要がされたという

記録が残っています

https://www.yoritomo-japan.com/nara-kyoto/daitokuji-sangenin.html

 

 

「森蘭丸公のお墓」

通常、”蘭丸(らんまる)”と呼んでいますが

文書では「乱」あるいは「乱法師」という名が

用いられています

諱(いみな)は「寛政重修緒家譜」に

”長定(ながさだ)”とありますが

当時の古文書の署名では「成利(なりとし)」

となっています

父・可成の功績が大きかったのでしょう

織田信長により息子たちに信長の「長」を

授けられ

長可(勝蔵)、蘭丸(長定)・力丸(長隆)・坊丸(長氏)とも

名乗ります

 

行年18歳

法名:瑞桂院殿鳳山知賢居士(可成寺)

戒名:月光宗春居士(大徳寺三玄院)

 

「坊丸公のお墓」

行年17歳

法名:夏山清涼信士(可成寺)

戒名:祐月宗徳信士(三玄院)

 

「力丸公のお墓」

行年16歳

法名:法雲宗心信士(可成寺)

戒名:花月宗泉信士(三玄院)

 

 

 

可成寺においても

天明元年(1782年)6月2日

森氏の末裔の赤穂城主・森蔵人により

三兄弟の200年忌追善法要が行われた

記録が残っています

 

森蘭丸入門編としてお薦めしたい本が

下記の「実像に迫る森蘭丸考」です

本能寺の変や小姓としての逸話などしか

知られていませんが

蘭丸公を全般に分かりやすく書いてあり

森蘭丸ファンのバイブルに

相応しい本だと思います

この本の旧版の時に少し関わりました

今はお亡くなりになったその当時の教育長さんが

著作されたもので「〇〇君も何か書け」と言われましたが

武者行列など他のことで忙しかったので

校正を手伝っただけでした(笑)

ただ、教育長さんと作った歴史同好会の名が

残っているのは感慨深いです

下記のミュージアムで500円で取り扱っています

また、今、手元にありませんが

平成20年に

織田信長近習「資料からみた森蘭丸」(500円)が

刊行されています

 

「戦国山城ミュージアム」

https://akechimitsuhide.com/spots/seeing/p2390/