美濃金山城東に寺ヶ峰があり

ここには元・可成寺と信長の休石があります

 

天正10年(1582年)3月

織田信長は

武田勝頼征伐のために安土城を出発

岐阜城に入り

3月8日岐阜を出発し、この日犬山城に1泊

翌9日美濃金山城に1泊しました

そして、森可成の正室・妙向尼(みょうこうに)さまに

夫の活躍の感謝と慶弔や蘭丸兄弟の小姓への

謝意を述べたといいます

このためにわざわざ、美濃金山城に来たそうです

 

ピンクラインが「美濃金山城址」

イエローラインが「元・可成寺がある寺ヶ峰」

 

 

 

左が「美濃金山城址」、右が「寺ヶ峰」

 

 

 

この登り口は滑りやすいのでご注意を

 

 

 

 

 

トコトコと歩いて行くと電波塔と

 

中部電力の送電塔があります

 

この角度だと右の方に可児市の中心街が見えます

手前左の山に隠れた部分に明智荘

 

北東方面・・・加茂郡八百津町

 

 

 

 

 

 

 

調べて見るとこの岩を信長の休石と

勘違いされてる方もお見えになりました

 

 

 

ここから、「元・可成寺跡」に入ります

 

道は整備されていますが

こちらに来られる方が少ないので

まだ、しっかりした看板が整備されていません

この木製の看板は20年前の残骸です

 

「元・可成寺(かじょうじ)」とは

美濃金山城主・森可成

(もりよしなり/長可・蘭丸三兄弟・忠政などの父)が

元亀元年(1570年)9月20日に

”江州宇佐山の戦い”で戦死すると

森長可は父の菩提を弔うために

翌2年金山城東の「寺ヶ峰(てらがみね)」に

可成寺(かじょうじ)を創設しました

この可成寺は

慶長5年(1600年)に森忠政が川中島転封後

次回記事の現・可成寺に移転をしました

 

現状、痕跡らしいものはこの石群ぐらい

礎石も露出していません

美濃金山城の発掘が済んだら

ここも発掘して欲しいと期待します

 

 

 

元・可成寺を上の写真だと

右に下って行くと写真の看板があります

 

調べて見たのですが

やっぱり、ここへ行く人は少なく3年前の写真では

看板は壊れていなかったのですが

意図的に壊したのではなく

倒木などで壊れたものだと思います

 

少し急な坂道を下ります

 

見えて来ました

 

「信長の休石」

 

この岩が「信長の休石」

上の元・可成寺で参拝を済ませた後

次の久々利城に向かう途中に

信長がこの岩に腰かけ休んだと

伝わります

長さ約3m、幅約1m、高さ約1m

 

地元では「休石洞」といわれます

 

この植林された杉の木々が無ければ

奥に美濃金山城天守が見えたことでしょう

 

全くの偶然ですが

この後の信長の行き先の記事が

中日新聞5月8日朝刊に載っていました

金山城址の後→久々利城泊(可児市)→神箆泊(神野こうの/土岐市)

神箆とは「鶴ヶ城」の別名

https://ameblo.jp/rohiemon/entry-12590793406.html

その後、岩村城に行きました

美濃金山城にもこういう「信長宿営看板」が欲しいですね

記事の事務局長は観光協会じゃないですが

職場が違う同じ仕事の先輩でした(笑)