“信仰”と“推し活”、それと“好き嫌い” | コンの徒然になるままに・・・

コンの徒然になるままに・・・

好きな事、気になることを徒然に。。。

ある意味、“ファン”というものは強く信仰してる宗教の教祖を崇める信者なのかもしれませんね。

そして“推し活”という熱心な布教活動に没頭。

また、そこに他と比較して“好き嫌い”の感情が入ってくれば、他がどんなに優秀でも認めたくない心が大きく作用してしまうややこしい事態も・・・

 

だから、“推し活”のおいては信仰してる宗教の布教活動と同じで、信じてる宗教、その宗教の教義、さらに教祖様のどんな言葉でもとにかく有難く思ってしまうし、例えちょっとでもその“お言葉”や“教え”に矛盾や不可解さ、不都合さを感じたとしても、「いやいや、“教え”や教祖様の“お言葉”に間違いがあるはずがない!!」と打ち消し、そんな気持ちを少しでも持った自分はまだまだファンとしての気持ち(信仰心)が足りないとなっていって、さらに傍から見たら“おかしい事をおかしいと思う事”を感じなくなってしまってるような。。。

 

さて、私自身の“推し活”って、どうなんでしょう?

 

実は、私の近しい人でも大輔さんのファンという事を知ってる人は少ない。

また、大輔さんに関するグッズとやらを所有してる数は、多分極端に少ない方だと思う。

雑誌等は、ある程度持ってるとは思いますが、それでも熱心なファンの皆さんに比べたら、多分少ないと思います。

さらに、大輔さんに関しても、大輔さんが言った言葉やいろんな行動、諸事情・諸問題への対応の仕方すべてに決して肯定的ではないな~っと感じることもしばしば。

 

そんないい加減と思われそうな“推し活”状態の私でも、今もファンを続けてるという事は、やはり熱心な信者で、“髙橋大輔”と言う人間を“信仰”してるって事なんでしょうね。。。

 

 

 

また、最近のある傾向を見て思い出した言葉。

 

『鰯の頭も信心から』
(信心があれば些細なものでもありがたく思えるということを表すことわざ)

 

 

これは決して大輔さんに対する自分の思いでは無いのですが、他の人のことで、過去のいろんな虚言や矛盾を思い浮かべてしまい、その明らかな虚言や矛盾を指摘されても、それを頑なに否定し信じてる人等に対し感じた事でした。

 

とある人の美辞麗句で虚飾された耳触りのイイ若しくはどこかで聞いたことをいかにも自分が発した言葉として放つ様をみてると、自分自身でも過去の問題のある発言や態度・行動はすっかり無かった事としてるし、さらに悪い事に自分の都合の良い解釈を周りにそう信じ込ませてる節があり、そのことをおかしいと感じることが出来ない“信者”の存在を目の当りにして、本当に信じ切って“信仰”することの危うさを感じてしまってます。

 

せめて、自分はそんな事にならないようにと思ってはいるのですが・・・

 

ま、周りから見たら十分狂信的に“信仰”してるように見えてしまってるかもしれませんね。

 

とにかく、過去・現在を冷静にある意味冷ややかに見る目を持つ事と、そしてその未来がどんなふうになるのかを見守っていく、その姿勢が大切なのかも・・・と。

 

本当に人の“信仰”心と感情の“好き嫌い”って厄介なモノですね・・・

 

では、また~。。。