ははきほし まいさうすまし
  いはのとの はいしますさう いましほきはは

(箒星 昧爽清まし 岩の戸の 排します右左 今し祝き母)

解説

箒星(ははきぼし)は「彗星 (すいせい) のこと。ほうきぼし。」、昧爽(まいそう/まいさう)は「明け方のほの暗い時。昧旦 (まいたん) 。」、排する(はいする)は「押しのける。しりぞける。排斥する。」「並べる。排列する。」「押し開く。」、今し(いまし)は「今という今。たった今。ちょうど今。」、祝く(ほく)は「よい結果が得られるように、祝福のことばを唱える。また、そのようにして神に祈る。ことほぐ。いわう。」の意味です。

雑感

今年2024年の9月末から10月に「紫金山・アトラス彗星」が見えるようになるのだそうだ。

『2024年の秋に肉眼で見えると期待された紫金山・アトラス彗星』(「Star Walk 2」より)


ちょっと前に、この彗星がバラバラになった、とかいうニュースを見た気がするが、上記記事によると、他の天文学者たちは異なる見解を示した、つまり本当の所は崩壊していない、とのこと。

下記9/2の記事でも、この彗星は健在とあり、やはり崩壊してない、ということになる。

『紫金山・アトラス彗星は「健在」科学者チームが発表 観測に最適な時期は?』(「Forbes Japan」より)


それで、まあ……彗星が来るとしても、だからどうした、と正直思っていたのだけれども、色々と調べてみると、霊界物語等の大本文献では、とんでもないことが書かれてある。

まず下記霊界物語では、大難の到来する前兆、彗星の後には地変が来る、というようなことが書かれてある。

『霊界物語 第49巻 第3篇 暁山の妖雲 第15章 彗星』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」さん)


『霊界物語 第38巻 余白歌』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」さん)


『霊界物語 第39巻 余白歌』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」さん)

 

『伊都能売神諭 大正8年1月27日』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」さん)


よくよく考えてみると、そもそも彗星の和名が「箒星」というのが気になる。

日月神示などでは「大掃除」という言葉が出て来るが、この箒星が現れるという現象は、人類が箒で大掃除される、という合図の象徴的現象となりうるかもしれない、とも思う。

『桜咲き神の御国は明けそめにけり。十月になったらぼつぼつ会得るぞと申してあろがな。叩(はたき)かけてばたばたと叩く処もあるぞ、箒(ほうき)で掃く処もあるぞ、雑巾かけしたり水流す処もあるのざぞ、掃除始まったらばたばたに埒(らち)つくと申してあろがな、めぐりだけの事は、今度は何うしても借銭無しにするのざぞ、花咲く人もあるぞ、花散る人もあるぞ。あめのひつ九のかミの御神名書かすぞ、それを皆の者に分けてやれよ。聴き度い事はサニワで聞けよ、何んなことでも聞かしてやると申してあろがな、神せけるぞ。火吹くぞ。火降るぞ。』(日の出の巻 第十帖)

『空に変りたこと現はれたなれば地に変りたことがあると心得よ、いよいよとなりて来てゐるのざぞ。神は元の大神様に延ばせるだけ延ばして頂き、一人でも臣民助けたいのでお願ひしてゐるのざが、もうおことはり申す術(すべ)なくなりたぞ。玉串 神に供へるのは衣(ころも)供へることぞ、衣とは神の衣のことぞ、神の衣とは人の肉体のことぞ。臣民をささげることぞ、自分をささげることぞ、この道理分りたか。人に仕へるときも同じことぞ、人を神として仕へねばならんぞ、神として仕へると神となるのざから、もてなしの物出すときは、祓ひ清めて神に仕へると同様にして呉れよ、喰べ物 今の半分で足りると申してあるが、神に献げたものか、祓ひ清めて神に献げると同様にすれば半分で足りるのぞ、てんのゐへん気つけて居れよ。神くどう気つけて置くぞ。神世近づいたぞ。』(天つ巻 第十三帖)

『岩(一〇)隠れし 比売(ヒメ)(秘命)のミホト(実秀答)は 焼かへ給ひて。 三分の一の人民になると、早うから知らせてありたことの実地がはじまっているのであるぞ。何も彼も三分の一ぢゃ、大掃除して残った三分の一で、新しき御代の礎と致す仕組ぢゃ、三分六ヶ敷いことになっているのを、天の神にお願い申して、一人でも多く助けたさの日夜の苦心であるぞ、カンニンのカンニン、ガマンのガマンであるぞ、九◎(光ノ神)の花咲くぞ。』(扶桑の巻 第七帖 ◎は原文では「〇にヽ」の記号)

また下記大本文献を見てみると、彗星が来ると疫病が流行るというようなことが書かれてある。

『大本史料集成 Ⅱ 運動篇 第一部 明治・大正期の運動 第一章 出口王仁三郎関係文書 第七節 随筆(抄) 『神霊界』大正9年2月11日号掲載』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」さん)


上記には、マスクは魔好く(マスク)なんてことも書かれているが、10月から始まるレプリコンワクチンと相まって、とんでもないことが起こる可能性も否定できない。

かねてから今年2024年10月10日(旧9月8日)という日付は、ちょっと注目していたが、日月神示の、九十気付け、秋の空ぐれん、十十目(とどめ)、辰の年に皇大神が出る、いつ岩戸開けるかも神示に示してある、等々の記述を総合して見ると、今年十月十日に大きな節目が来るのではないか、という思いが湧き出して止まらない。

『外国の飛行機が来るとさわいでゐるが、まだまだ花道ぞ、九、十となりたらボツボツはっきりするぞ。臣民は目のさきばかりより見えんから、可哀さうなから気をつけてゐるのに何してゐるのか。大切なことを忘れてゐるのに気がつかんか。この知らせをよく読みて呉れよ。十月まで待て。それまでは、このままで居れよ。』(上つ巻 第六帖)

※最近、中国の領空侵犯がありましたね。

『一日のひのまにも天地引繰り返ると申してあろがな、ビックリ箱が近づいたぞ、九、十に気附けと、くどう申してあろがな、神の申すこと一分一厘ちがはんぞ、ちがふことなら こんなにくどうは申さんぞ、同じことばかり繰り返すと臣民申して居るが、この方の申すこと みなちがってゐることばかりぞ、同じこと申していると思ふのは、身魂曇りてゐる証拠ぞ。改心第一ぞ。』(天つ巻 第三帖)

『天(あめ)は天の神、国は国の神が治(し)らすのであるぞ、お手伝ひはあるなれど。秋の空のすがすがしさが、グレンと変るぞ、地獄に住むもの地獄がよいのぞ、天国ざぞ、逆様はもう長うはつづかんぞ、無理通らぬ時世(ときよ)が来たぞ、いざとなりたら残らずの活神(いきがみ)様、御総出ざぞ。』(天つ巻 第六帖)

『一升桝には一升しか入らぬと臣民思ふてゐるが、豆一升入れて粟(あわ)入れる事出来るのざぞ。その上に水ならばまだはいるのざぞ。神ならばその上にまだ幾らでもはいるのざぞ。神が移りたら人が思はぬ事出来るのざぞ。今度は千人力与へると申してあろが。江戸の仕組 世の終わりぞ。天おろがめよ。つちおろがめよ。まつはれよ。秋の空グレンと申してあろがな。冬も春も夏も気つけてくれよ。』(日月の巻 第二十三帖)

『四八音(ヨハネ)世に出るぞ、五十音(イソネ)の六十音(ムソネ)と現はれるぞ、用意なされよ。それまでにさっぱりかへてしもうぞ、天も変るぞ地も変るぞ。此の方等が世建直すと申して此の方等が世に出て威張るのでないぞ、世建直して世は臣民に任せて此の方等は隠居ぢゃ、隠れ身ぢゃぞ。地から世持ちて嬉し嬉しと申すこと楽しみぞ、子供よ、親の心よく汲み取りてくれよ。此の神示読まいでやれるならやりてみよれ、彼方(あちら)でこつん 此方(こちら)でくづれぢゃ、大事な仕組 早う申せば邪魔はいるし、申さいでは判らんし、何にしても素直に致すが一番の近道ざぞ、素直になれんのは小才があるからざぞ。鼻高ぢゃからざぞ。神の国は神の国のやり方あると申してあろがな、よきは取り入れ悪きは捨てて皆気付け合って神の国は神の国ぢゃぞ、金は金ぢゃ、銀は銀ぢゃぞと申してあろがな、盲ならんぞ、カイの御用もオワリの仕組も何も彼も裏表あるのざぞ、裏と表の外(ほか)に裏表あるぞ、ウオヱであるぞ、アとヤとワざぞ、三つあるから道ざぞ、神前に向って大きくキを吸ひ肚に入れて下座に向って吐き出せよ、八度繰り返せよ、神のキ頂くのざぞ、キとミとのあいの霊気頂くのざぞ。ひふみがヨハネとなり、五十連(イツラ)となりなって十二の流れとなるのざぞ、ムがウになるぞ、ンになるぞ、ヤとワとほりだして十二の流れ結構ざぞ。知らしてあろがな、是迄の考へ方やり方致すなら建替ではないぞ、何も彼も上中下すっかりと建替へるのざぞ、外国は竜宮の音秘(オトヒメ)様ぐれんと引繰り返しなさるのざぞ、竜宮の音秘(オトヒメ)様、雨の神様の御活動 激しきぞ。今度 次の大層が出て来たら愈々ざぞ。最後の十十※(トドメ)(透答命)ざぞ、今度こそ猶予ならんのざぞ、キリキリであるから用意なされよ、三四月気付けよ、キきれるぞ。信心なき者ドシドシ取り替へるぞ、此の中、誠一つに清め下されよ、天明まだまだざぞ、世の元の型まだまだざぞ、神の仕組 成就せんぞ、神人共にと申してあろがな、神厳しきぞ、ぬらりくらりぬるくって厳しきぞ、と申してあろがな。役員多くなくても心揃へて胴(十)すへて居りて下されよ、神がするのであるから此の世に足場作りて居りて下されよ、神無理申さんぞと申してあろがな、けれどもちっとも気許しならんのざぞ。身魂相当に皆させてあろがな、掃除早うせよ、己の戦まだすんでゐないであろが、洗濯掃除 早う結構ぞ、此の方の神示元と判り乍ら他の教で此の道開かうとて開けはせんのざぞ、鏡曇ってゐるから曲って写るのざぞ、一人の改心ではまだまだぞ、一家揃って皆改心して手引き合ってやれよ、外国人も日本人もないのざぞ、外国々々と隔て心悪ぢゃぞ』(雨の巻 第十五帖 ※は原文では「目のマーク」の形)』(雨の巻 第十五帖)

『富士と鳴門の仕組わかりかけたら、いかな外国人でも改心するぞ、それ迄に神の国の臣民 改心して居らぬと気の毒出来るぞ。天狗や狐は誰にでもかかりてモノいふなれど、神は中々にチョコラサとはかからんぞ、よき代になりたら神はモノ云はんぞ。人が神となるのざぞ、この神は巫女(みこ)や弥宜(ねぎ)にはかからんぞ、神が誰にでもかかりて、すぐ何でも出来ると思ふてゐると思ひが違ふから気つけておくぞ。かみがかりに凝るとロクなことないからホドホドにして呉れよ。この道は中行く道と申してあろがな。戦すみたでもなく、すまぬでもなく、上げもおろしもならず、人民の智や学や算盤では、どうともできんことになるのが目の前に見へてゐるのざから、早う神の申す通り素直に云ふこときけと申してゐるのざぞ。長引く程、国はヂリヂリになくなるぞ。米あると申して油断するでないぞ、タマあると申して油断するでないぞ。命(いのち)あると申して油断するでないぞ。この神示よく読めば楽になって人々から光り出るざぞ、辰の年はよき年となりてゐるのざぞ、早う洗濯してくれよ。』(磐戸の巻 第九帖)

『新しき御代の始めのタツの年。スメ大神の生れ出で給ひぬ。皆々御苦労ながら、グルグル廻って始めからぢゃと申してあらうが。始の始と始が違ふぞ。皆始めヒからぢゃ。赤児になりて出直せよ。ハラで見、ハラできき、ハラで話せよ。ハラには間違ひないのぢゃ。祈りばかりでは祈り地獄、神から光いただけるように理(ミチ)つけねばならん。水は低きに流れるぞ。喜びに叶ふ心、喜びの行あるところ喜び来るのぢゃ。喜びにも正しきと曲れるとあるぞ。無限段階あるのぢゃ。心して迷はんように致しくれよ。此処は光の理(ミチ)伝へ、行ふ所、教でないと申してあろう。教は教に過ぎん。理でなくては、今度はならんのぢゃ。天の理、地の理、もろもろの理、カタ早う急ぐぞ。教は局部的、時、所で違ふのぢゃ。迷信となるぞ。ハラが神であるぞ。』(春の巻 第一帖)

『今度の戦で何もかも埒ついて仕まふ様に思うてゐるが、それが大きな取違ひぞ、なかなかそんなチョロッコイことではないぞ、今度の戦で埒つく位なら、臣民でも致すぞ。今に戦も出来ない、動くことも引くことも、進むことも何うすることも出来んことになりて、臣民は神がこの世にないものといふ様になるぞ、それからが、いよいよ正念場ぞ、まことの神の民と獣とをハッキリするのはそれからぞ。戦出来る間はまだ神の申すこときかんぞ、戦出来ぬ様になりて、始めて分かるのぞ、神の申すこと、ちっとも違はんぞ、間違ひのことなら、こんなにくどうは申さんぞ。神は気(け)もない時から知らしてあるから、いつ岩戸が開けるかと云ふことも、この神示(ふで)よく読めば分かる様にしてあるのぞ、改心が第一ぞ。』(下つ巻 第二十五帖)

もしかしたら、今年九月十月から、いよいよの大峠に差し掛かり、地獄の三段目が開かれるのかもしれないが、日月神示では、それは一方で一番の天国を通ずること、ともある。

『神界は七つに分かれてゐるぞ、天つ国三つ、地(つち)の国三つ、その間に一つ、天国が上中下の三段、地国も上中下の三段、中界(ちうかい)の七つぞ、その一つ一つがまた七つに分かれてゐるのぞ、その一つがまた七つずつに分れてゐるぞ。今の世は地獄の二段目ぞ、まだ一段下あるぞ、一度はそこまで下がるのぞ、今一苦労あると、くどう申してあることは、そこまで落ちることぞ、地獄の三段目まで落ちたら、もう人の住めん所ざから、悪魔と神ばかりの世にばかりなるのぞ。この世は人間にまかしてゐるのざから、人間の心次第ぞ、しかし今の臣民のやうな腐った臣民ではないぞ、いつも神かかりてゐる臣民ぞ、神かかりと直ぐ分かる神かかりではなく、腹の底にシックリと神鎮まってゐる臣民ぞ、それが人間の誠の姿ぞ。いよいよ地獄の三段目に入るから、その覚悟でゐて呉れよ、地獄の三段目に入ることの表(おもて)は一番の天国に通ずることぞ、神のまことの姿と悪の見られんさまと、ハッキリ出て来るのぞ、神と獣と分けると申してあるのはこのことぞ。何事も洗濯第一。』(富士の巻 第九帖)

岩戸(一八十)が開かれると、今までの和光同塵的なやり方から、くっきり善と悪が現れて来る、ということのようである。

霊界物語等には、正神界も邪神界も各百八十一の階級がある、との記述がある。

『霊界物語 第10巻 第1篇 千軍万馬 第26章 貴の御児』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」さん)


『出口王仁三郎著作集 第一巻「神と人間」 本教創世記 第4章』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」さん)


さらに下記霊界物語では、頂点の一段は天御中主大神(またの名を大国治立尊)とあるので、実質百八十段、ということになるかと思われる。

『霊界物語 第28巻 第4篇 南米探険 第19章 高島丸』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」さん)


そして下記ブログにもあるように、「イワト=一八十(180)」が開かれるというのは、正神界邪神界の180段の階級が確定した上で、我々もまたそのどれかの階級がかかった神と同一になることで、その段数に応じた世界に行くものと思われるわけである。

『霊界のことはこの世で学べ。霊界の霊に説明が出来ない霊界?。霊には気づけていない霊界の次元格の層と霊壁』(「人に内在する良心神(神言会)」さん)


さらに言うと、正神界と邪神界ともに「180段+180段」で360段と見て、これを「三六〇」と変換すると「三六(ミロク)の〇(霊)」となり、かねてから各神示で伝えられているように、永遠の世であるミロクの世に生きる霊たちが揃う、ということのようにも思う。

ただこの各180段ある正神界と邪神界は、一緒の世界にいて戦うのではなくて、それぞれ別の世界に住むようになる、ということのようだ。

日月神示では、悪は影さえ残さない、という記述がある一方で、悪結構、悪憎むことはなくなる、という記述がある。

『前にも建替はあったのざが、三千世界の建替ではなかったから、どの世界にでも少しでも曇りあったら、それが大きくなって、悪は走れば苦労に甘いから、神々様でも、悪に知らず知らずなって来るのざぞ。それで今度は元の生神が天晴れ現はれて、悪は影さへ残らぬ様、根本からの大洗濯するのぞ、神々様、守護神様、今度は悪は影も残さんぞ。早よう改心なされよ。建替の事 学や智では判らんぞ。』(松の巻 第十二帖)

『大難小難にと祈れと申してくどう知らしてあろがな、如何様にでも受け入れてよき様にしてやる様仕組てある神の心判らんか、天災待つは悪の心、邪と知らしてあるがまだ判らんのか、くにまけて大変待ちゐる臣民 沢山あるが、そんな守護神に使はれてゐると気の毒になりて来るぞ、よく神示読んで下されよ。今の守護神、悪の血筋眷属であるぞ、悪も御役ながら奥表に出ては誠おさまらんぞ、悪結構な世は済みて、善結構、悪結構、卍(ホトケ)結構、基(ヤソ)結構、儒結構(コトゴトク)の世となりなる神の仕組 近くなって来たぞ。世の元からの仕組、中行く仕組、天晴(アッパレ)三千世界結構であるぞ、心の不二も晴れ晴れとなるぞ、結構々々。甘くてもならんぞ、辛(カラ)くてもならんぞ、甘さには辛さいるぞ、天の神様許りではならんのざ、くどう申して此処迄知らしてゐるにまだ判らんのか、心さっぱり大河に流して神示読んで下されよ、何時迄も神待たれんぞ、辛さには甘さかげにあるのざぞ、此の道理よく判るであろがな、水の味 火の味 結構ぞ、恐い味ない様な結構な恐さであるぞ、喜びであるぞ、苦しみであるぞ、此の道理よく判りたか。神の御恵み神の御心判りたか、御心とは三つの御心ぞ、一と十とヽとであるぞ、御心結構ぞ、世の元の神の仕組の現はれて三千世界光り輝く、あなさやけ。』(雨の巻 第八帖)

『地上には、地上の順序があり、法則がある。霊界には、霊界の順序があり、法則がある。霊界が、原因の世界であるからと云って、その秩序、法則を、そのまま地上にはうつし得ず、結果し得ないのである。また地上の約束を、そのまま霊界では行ない得ない。しかし、これらの総ては大神の歓喜の中に存在するが故に、歓喜によって秩序され、法則され、統一されているのである。その秩序、法則、統一は、一応 完成しているのであるが、その完成から次の完成へと弥栄する。故にこそ弥栄の波調をもって全体が呼吸し、脈拍し、歓喜するのである。これが、生命の本体であって、限られたる智によって、この動きを見るときは、悪を許し、善の生長弥栄を殺すが如くに感ずる場合もある。しかし、これこそ善を生かして、更に活力を与え、悪を浄化して必要の悪とし、必然悪として生かすのである。生きたる真理の大道であり、神の御旨なることを知り得るのである。本来 悪はなく闇はなく、地獄なきことを徹底的に知らねばならない。これは生前、生後、死後の区別なく、総てに通ずる歓喜である。一の天界に住む天人が、二の天界に上昇した時、一の天界は、極めて低い囚われの水の世界であったことを体得する。更に一段上昇、昇華して三の段階に達した時も同様である。地上人的感覚によれば、二の天界に進んだ時、一の天界は悪に感じられ、三の天界に進んだ時、一の天界は最悪に、二の天界は悪に感じられる場合が多い。悪的感覚と悪的実態は自ら別であるが、この実状を感覚し分け得た上、体得する霊人は極めて少ない如く、地上人に到りては極めて稀であることを知らなくてはならない。悪を悪なりと定めてしまって、悪は総て祖先より、或いは原因の世界より伝えられたる一つの因果であると云う平面的、地上的考え方の誤っていることは、以上述べた処で明白となり、己を愛するは、先ず悪の第一歩なりと考える、その考えが悪的であることを知らねばならぬ。来るべき新天地には、悪を殺さんとし悪を悪として憎む思念はなくなる。しかし、それが最高の理想郷ではない。更に弥栄して高く、深く、歓喜に満つ世界が訪れることを知り、努力しなければならぬ。』(地震の巻 第七帖)

善と悪が衝突するならこれら記述は矛盾しているのではないか、となるが、善と悪が永遠に別れ別れになるならば、これら記述は、全て納得できるのではないだろうか。

また今回の彗星の名前「紫金山・アトラス彗星」も何だか気になる感じ。

アトラスの娘の名は「アトランティス」というそうだが、下記ブログによれば、アメリカにはアトランティス時代の魂が多く転生しているそうだ。

『D33 レムリアとアトランティス  2005.11』(「旦那の部屋」さん)


さらに日本とカリフォルニアに大地震が来る、とある。

『2005年9月15日』(「旦那の部屋」さん)


記事では、カリフォルニアが先で日本が後、と書いてあるが、記憶では、他の箇所で、今は順番が逆になってるかもしれない、という記述もあったかと思う。

ただ、探してみたが見つからないので、ひょっとしたらここに転記されていない「Q&D」の記事だったのかもしれない。

どちらにせよ日本はもう東日本大震災があったので、次はカリフォルニア、という可能性もあるかもしれない。或いはカリフォルニアの大地震があった後に、南海トラフ、という見方もできるのかもしれない。

現に今、カリフォルニアで地滑りの加速が起きているので、可能性が全くないとは言い切れないようにも思う。

『「動く地面が見えるほど」 米ロサンゼルス近郊で地滑り加速、送電線に迫る 200戸で停電』(「yahooニュース」より)


日月神示の、外国はお土がさかる(下がる)、が、いよいよ起こるのかもしれない。

『二二は晴れたり、日本晴れ。神の国のまことの神の力をあらはす代となれる、仏もキリストも何も彼もはっきり助けて七六かしい御苦労のない代が来るから みたまを不断に磨いて一筋の誠を通して呉れよ。いま一苦労あるが、この苦労は身魂をみがいて居らぬと越せぬ、この世初まって二度とない苦労である。このむすびは神の力でないと何も出来ん、人間の算盤では弾けんことぞ、日本はお土があかる、外国はお土がさかる。都の大洗濯、鄙の大洗濯、人のお洗濯。今度は何うもこらへて呉れというところまで、後へひかぬから、その積りでかかって来い、神の国の神の力を、はっきりと見せてやる時が来た。嬉しくて苦しむ者と、苦しくて喜ぶ者と出て来る◎は神の国、神の力でないと何んにも成就せん、人の力で何が出来たか、みな神がさしてゐるのざ、いつでも神かかれる様に、綺麗に洗濯して置いて呉れよ。戦は今年中と言っゐるが、そんなちょこい戦ではない、世界中の洗濯ざから、いらぬものが無くなるまでは、終らぬ道理が分らぬか。臣民同士のいくさでない、カミと神、アカとあか、ヒトと人、ニクと肉、タマと魂のいくさぞ。己の心を見よ、戦が済んでいないであろ、それで戦が済むと思うてゐるとは、あきれたものぞ、早く掃除せぬと間に合わん、何より掃除が第一。さびしさは人のみかは、神は幾万倍ぞ、さびしさ越へて時を待つ。加実が世界の王になる、てんし様が神と分らん臣民ばかり、口と心と行と、三つ揃うたまことを命(みこと)といふぞ。神の臣民みな命(みこと)になる身魂、掃除身魂結構。』(上つ巻 第一帖 ◎は原文では「○にヽ」の記号)

さらに今年、北極の気温が異常なのだそうだ。

『スヴァールバル諸島の2024年8月の気温が、過去124年間との比較で異常』(「BrainDead World」さん)


さらに下記ブログでは、もう地球の核がだめになっている、と示されているが、今年九月十月を境に、それらの動きが、いよいよ我々の目にも見えるようになってくるのかもしれない。

『終わりの事象。今の世はにっちもさっちも行かない。神は火(か)水(み)とも呼ばれ、火責め。水責め。』(「人に内在する良心神(神言会)」さん)


下記参照。

『ドキュメンタリー 2017: 完全版 もしも地球の自転が止まったら?』(「2017ドキュメンタリー」さん)

 

 


ちなみに霊界物語では、五十世紀の地上世界は炎熱甚しい、という記述があるが、その流れが今始まったのかもしれない。

『霊界物語 第15巻 第4篇 神行霊歩 第21章 帰顕』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」さん)