かみのうち うたいせんたう
  ししのよの ししうたんせい たうちうのみか

(神の内 宇内善道 慈氏の世の 四周丹誠 多宇宙の見が)

解説

宇内(うだい)は「天下。世界。」、善道(ぜんどう/ぜんだう)は「正しい道。徳義にかなった道。」、慈氏(じし)は「弥勒の異名。慈氏菩薩。慈氏尊。」、四周(ししゅう/ししう)は「四方のまわり。あたり。また、四方をとりかこむこと。四辺。四囲。」、丹誠(たんせい)は「飾りけや偽りのない心。まごころ。誠意。丹心。赤心。」、多宇宙(たうちゅう/たうちう)は「ユニバース(宇宙)のユニ(単一)をマルチ(多重、多数)に置き換えた造語。宇宙は我々が存在する宇宙だけでなく、別に、または無数に存在するかもしれないという仮説に基づく。インフレーション宇宙論から導かれる無数の泡宇宙や量子力学の多世界解釈による多元宇宙など、さまざまな仮説が提唱されている。いずれも原理的に観測可能な宇宙ではなく、行くことも見ることもできない理論上の存在と考えられている。マルチバース。並行宇宙。」、見(み)は「見ること。また、はたから見える物の状態。」の意味です。

余談

この歌は、霊界物語の下記部分を読んで、それをモチーフに書いた歌です。

『霊界物語 第23巻 第3篇 有耶無耶 第14章 籠抜』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」さん)


雑感

三千世界一度に開く梅の花

ということで、ミロクの世の到来を言祝ぐ歌です。

日月神示参照。

『白銀の巻 第一帖』(「ひふみ神示データ」さん)


※特殊文字が多いのでリンクしています。

この『白銀の巻 第一帖』には下記部分があるが、この「七つ」「八つ」を「地獄界三段・中有界・天国界三段」の七つと、さらにその上の最奥天国の一つと解釈したら、この度の「三千世界一度に開く梅の花」は、とてつもないことが起こる、とも推察できるような気がする。

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三千の世界の中の一つがそなた達の世界であるぞ。この世も亦三千に分れ、更に五千に分れてゐるぞ。このほう五千の山にまつれと申してあろう。今の人民の知り得る世界はその中の八つであるぞ。人民のタネによっては七つしか分らんのであるぞ。日の光を七つと思うてゐるが、八であり、九であり、十であるぞ。人民では六つか七つにしか分けられまいが。「イワトがひらけると更に九、十となるぞ。【かくしてある一厘の仕組、九十の経綸、成就した暁には何も彼も判る】」と申してあらうが。

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昔、変な想像をしたことがあるのだが、その想像とは、ある日突然、全人類が仮死状態になって、次に目覚めた時は、一人一人、それぞれの心に応じた世界が目の前に広がっている、というもの。

それはまるで夜に見る夢のような世界なのだが、もうその夢の世界からは永遠に目覚めることがないため、その夢の世界(異界)こそが現実の世界となり、今記憶しているこの現実世界のほうが夢の世界に感じられる、というもの。

次の瞬間、今までの現実世界と思っていた記憶がスーっと消え去って、後は、これまでの現実世界だと思っていた世界の中での自分の経験に応じた心の状態の世界が広がっている、というものだ。

感覚としては、無数にある空間にそれぞれの人が閉じ込められるような感覚だが、しかし天国的世界に行った人は、長い間の苦労の悪夢(つまり今の現実世界)から覚めたような感覚になる、というものだ。

そしてもう、その世界では不都合や悪が一切ない世界が目の前に展開されており、「あぁ、今までの悪夢的世界(今の現実世界)は夢であったか。」と安堵の吐息を漏らすとともに、目の前の嬉し楽しの現実世界(今から見れば夢のような世界)が広がっているというもの。

そしてその世界では、自分の思ったことがすぐに目の前に展開されてゆくという霊界的側面もあり、ドラえもんの道具を全部使えるような感じになっている。

さらにその夢のような世界が一つだけでなく多次元的に展開されており、まるで無数の映画を見るような感覚で、その宇宙間を行き来するわけだが、しかしどの世界も、不都合や悪が全くない世界であることは共通しているのだ。

たとえるならば、遊園地に行って、いろんなアトラクションを楽しむように、どの世界も、一つとして不快なものはない、という感じだ。

そして今の現実世界の感覚だと、楽しい遊園地にいっても、必ず終わりがあり、次の日からまた辛い一日が始まるわけだが、もうその世界では食うために働くのではなく、他者と喜びを共有するために働くだけとなるので、また働きたくなければ働かなくても良い世界もあるので――もっとも、働かない世界は、それら多次元的世界の中でも一番喜びが少ないことになるわけだが――それら世界を自由に遊べる、ということになるのである。

というよりも、今の感覚で言うと、遊園地のアトラクションに乗ることが働くような感覚になっているので、「遊び=仕事」というような感じなのだ。

なので、この三次元世界的に言うならば、遊園地で一日中遊びにいっていたら、裕福な生活ができるほどのお金が手に入る、というような感覚なのだ。

といっても当然、もうそれら世界には「お金」なんてものは無いので、あくまで三次元世界的な感覚で表現するならば、ということにはなる。本当はそれどころではないほどの歓喜弥栄の世界なのだが、今の感覚で表現するならば、そのような感じとなる。

古事記とかでも「~~遊ばす。」という表現が出て来たり、ヒンドゥー教でも「リーラ(遊戯)」という言葉が出て来たりするが、全てが「嬉し楽し」を表現し、それを自他共に喜ぶだけとなっているので、とにかく今からでは想像できないぐらいの、無限の時間の中で続いていく、あらゆる形式の「嬉し楽し」の世界が広がっているのだ。

※ちなみに遊ばす(あそばす)は「‘する’の尊敬語。なさる。」の意味。

たとえるならば、積み木を積んで遊ぶ経験しかしたことがなかった子供が、いきなりUSJやTDLに行くこととなり、そして世界中の遊園地に行くこととなり、さらには宇宙に広がる無数の星の中の遊園地に遊びにいくようなものなのだ。

岩戸開きは、一八(いは=岩)の戸を開くという意味もあると思われるが、順序から言うと「一二三四五六七八九十百千万」であって、これが開かれると、次は九、十の世界が広がっており、その次はもう「百」「千」「万」と、桁が違う世界が広がっているわけである。

つまり、今までの世界を「一~八」(=岩)の中の世界とすると、その岩の中の世界が開かれれば今度は「九」「十」の世界が広がっており、今までとは違う、九十なる(ことなる=異なる)世界が眼前に広がるようになるのである。

そしてその先には「百」「千」「万」という、今からでは想像しきれないような桁違いの世界が広がっているわけである。

「一」から一つ進むと「二」となり、「二」から二つ進むと「四」となるわけだが、「八」から一つ進むと「九」となり、「九」から二つ進むと「百」になっているのだ。

だから、今までは進んでも進んでも、同じような世界が広がっていただけで、何も変わっていないように見えていたのだが、岩戸が開かれると、一つ進んだだけなのに、まるで蛆が蝶になるかのような、全く別の新しい現象が出て来て、今からでは想像しきれないほどの「嬉し楽し」が出て来る、というわけなのだ。