なかきえん しにつみついし
  たいくとく いたしいつみつ にしんえきかな

(永き縁 死に罪追思 大功徳 出だし厳瑞 二神良きかな)

解説

縁は「仏語。結果を生じる直接的な原因に対して、間接的な原因。原因を助成して結果を生じさせる条件や事情。」「そのようになるめぐりあわせ。」、死は「生命がなくなること。死ぬこと。また、生命が存在しないこと。」、罪は「規範、法則を犯し、その結果とがめられるべき事実。また、そのような行為に対する責任の観念をいう。」「他人に不利益や不快感などを与える行為によって、怒り、恨み、非難、報復などを受けるようなこと。人に対して悪い事をした事実、またはその責任。」、追思(ついし)は「過ぎ去ったことをあとから思うこと。追想。追憶。」、功徳(くどく)は「現世・来世に幸福をもたらすもとになる善行。善根。」「神仏の恵み。御利益 (ごりやく) 。」、出だす(いだす)は「(隠れていたものや、しまってあったものなどを)人前に現わす。提出する。提供する。」「(なかったものを)新しく生じさせる。発生させる。ひきおこす。」、良し(えし)は「よい。」の意味です。

余談

この歌は、下記動画を見て、それをモチーフに書いた歌です。

『🪄【予言シリーズ・18回】📣✝キリストの再臨の様子を伝える霊界通信⛅G・V・オーエンの霊界通信は、シュタイナーの予言を証明していた❗私たちが死後にキリストを見るために、今必要とされる至宝の叡智とは❗』(「Sakimori」さん)


雑感

なるほど、それで霊界物語を音読せよせよ、言っているのか……。

たとえ内容があまり理解できなくとも、読んでいるだけで少なくとも第三天国にはいける、と。その上も目指せる、と……。

下記参照。

『霊界物語 第55巻 序文』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」さん)


逆に、生きている内に神や霊界のことを知らないと、死んでからはその世界を見ることも触ることもできずに、暗い世界でさ迷わないとあかんのか……。

映画「パレード(The Parades)」で、(お酒を飲んだことのない)未成年の人が(あの世的な所で)お酒を飲んでも、一切味がしない、というシーンがあったが、そういう感じっぽいな。

ちなみにそのお酒は、元々は隣にいるおじさんが飲んでいて、うまいうまい、と言って飲んでいるので、未成年の人が、そんなにうまいのかと思って、同じようにそのお酒を横からふんだくって飲んでみたら、全く味がしない、というシーン。

つまり、おじさんは生きている時にお酒を飲んだ経験があり、そのお酒の味を知っているので、死後もそのお酒の味は解るが、未成年者は生きている内に一度もお酒を飲んだことがなかったので、死後、その土台となる「お酒の味」が心の中にないので、(心の世界からなる)霊界では、全く味がしなかった、ということかと思われる。

 

なので、生きている内から、目の前のこの現界を神の世界と認識して、愛善の行為を積んでいけば、死んだ後の世界には、自分が生前してきた愛善の度合に対応する愛善の世界(第一天国~第三天国)が広がっており、神の世界に行ける、ということなのだろう。

 

逆に、生きている内に憎悪の行為を積んでいれば、死後はそのような世界しか心に残らなくなるので、必然的に憎悪の世界に行くということなのだろう。

話は変わるが昨日、ベランダで洗濯干していたら、鳥が美しい声で鳴いていて、ここは現界なのに、まるで天国みたいだなぁ、と思っていたが、神・幽・顕を通して神様は統治している、という知識を、今更ながら実体験できた気がする。

そんでもってこの感覚って、幼い時に見ていた目の前の世界(現界)の見方と似ている感じがする。空を見上げた時に吸い込まれていくような、そういう感覚とか、初めてお花を見た時に、わぁ綺麗だなぁ、と思ったりとか。

大人になると、色々な経験則から、昨日と今日は時間的につながっていて、昨日から続いた世界のように見えるが、そうではなくて、一瞬一瞬に流れて行く世界そのものに、自分の存在ごとダイブさせていって、それに没頭する感覚なのかもしれん。これが「産(うぶ)な心に立ち返る」ってやつなのかもしれん。