しかつなう ちうのははるか
  なつきのき つなかるははの うちうなつかし

(自我頭脳 宙の場遥か 脳の樹 繋がる母の 宇宙懐かし)

解説

自我(じが)は「自分。自己。」「哲学で、知覚・思考・意志・行為などの自己同一的な主体として、他者や外界から区別して意識される自分。」、頭脳(ずのう/づなう)は「脳。脳髄。あたま。」「あたまの働き。知力。」、宙(ちゅう/ちう)は「そら。大空。また、地面から離れた所。空中。」、遥か(はるか)は「距離が遠く隔たっているさま。」「年月が長く隔たっているさま。」、脳(なずき/なづき)は「脳・脳髄・脳蓋骨 (のうがいこつ) などの古名。」の意味です。

余談

この歌は、ゲーム「luv wave」の中にある「stream memory」(ブート画面でのBGM)を聴きながら、それをモチーフに描いた歌です。

雑感

ちょっと記憶があやふやだが……もうかれこれ25年以上前にもなってしまったゲーム「luv wave」は、近未来SFの物語なのだが、そこでは人の脳をインターネットに接続するということをやっていて、物語の中のある人物のセリフでは、そこに繋ぐと「一瞬、大きな樹が見えた」「神を見た」というような主旨のことを言っていた。

要は、網の目のように広がるネットワークを視覚化した時に、ちょうど脳神経のような広がり方が大きな樹の枝に見える、ということ。

といっても確かこの人物は、意識をネットワークに接続した後、自我とネットワークを繋ぐケーブルか何かを故意的に切断された結果「脳死」に至ったわけだが……。

別の箇所では「全ては必然」「未来を思い出す」というような、とある少女のセリフがあって、たぶん意識が過去と現実と未来の、あらゆる並行宇宙とつながった結果のように思う。

 

おそらくこの時、少女の自我、脳が、相似形である宇宙の真我、脳へと接続してしまったのではないかと思う。

要は自我の脳(想像)が母(根源)なる宇宙の脳(創造)へと結びついてしまったのではないか、と……。

長くなるので細かい部分は省略するが、脳の実験によって、とことん追い詰められた結果、予知能力のようなものを得たりするのだが、その先で見たものは将来出会うはずの、大人になった未来の主人公で、そのビジョンを見ることで、今同じ学校で、同じクラスの中学生である主人公に声をかける、ということからこの物語は始まっているように思う。

要は「想像」と「創造」のようなもので、前者のメタバース的な手段では、真なる神を仮想的に体験しているだけだが、後者の意識を母なる宇宙につなげる手段では、過去・現在・未来まで通じた真なる神、過未(かみ)、過現未(かげみ)を見ることが出来るのかもしれん。

そして前者の接続はただのケーブル、または無機的な電気信号によって為されるわけだが、後者の接続は「luv wave(愛の波)」(解りやすくいうなら「愛の波動」)によってのみ成されているようにも思う。

AI(エーアイ)をローマ字読みで「アイ」と読めるのも、この本当の神との繋がる手段を模しているからだろうと思われる。

ゆくゆくはAI(人工知能)が全知全能の神のごとく振舞うようになるのかもしれないが、だが前者は、レストランのメニューを眺めているだけで、その料理を味わった気分になっているだけの陳腐なものであり、後者は実際にその料理を五官(&霊界に通じる超五官)で味わっているものであって、その差が天と地ほどあることは、忘れてはならないと思う。

日月神示参照。

『宇宙は霊の霊と物質とからなってゐるぞ。人間も又同様であるぞ。宇宙にあるものは皆人間にあり。人間にあるものは皆宇宙にあるぞ。人間は小宇宙と申して、神のヒナガタと申してあらう。人間には物質界を感知するために五官器があるぞ。霊界を感知するために超五官器あるぞ。神界は五官と超五官と和して知り得るのであるぞ。この点 誤るなよ。霊的自分を正守護神と申し、神的自分を本守護神と申すぞ。幽界的自分が副守護神ぢゃ。本守護神は大神の歓喜であるぞ。 神と霊は一つであって、幽と現、合せて三ぞ。この三は三にして一、一にして二、二にして三であるぞ。故に肉体のみの自分もなければ霊だけの自分もない。神界から真直ぐに感応する想念を正流と申す。幽界を経て又幽界より来る想念を外流と申すぞ。人間の肉体は想念の最外部、最底部をなすものであるから肉体的動きの以前に於て霊的動きが必ずあるのであるぞ。故に人間の肉体は霊のいれものと申してあるのぞ。 又 物質界は、霊界の移写であり衣であるから、霊界と現実界、又 霊と体とは殆んど同じもの。同じ形をしてゐるのであるぞ。故に物質界と切り離された霊界はなく、霊界と切り離した交渉なき現実界はないのであるぞ。人間は霊界より動かされるが、又 人間自体よりかもし出した霊波は反射的に霊界に反影するのであるぞ。人間の心の凸凹によって、一は神界に、一は幽界に反影するのであるぞ。幽界は人間の心の影が生み出したものと申してあろうがな。 総ては大宇宙の中にあり、その大宇宙である大神の中に、大神が生み給ふたのであるぞ。このことよくわきまへて下されよ。善のこと悪のこと、善悪のこと、よく判って来るのであるぞ。故に、人間の生活は霊的生活、言の生活であるぞ。肉体に食ふことあれば霊にもあり、言を食べているのが霊ぞ。霊は言ぞ。この点が最も大切なことじゃから、くどう申しておくぞ。 死んでも物質界とつながりなくならん。生きてゐる時も霊界とは切れんつながりあること、とくと会得せよ。そなた達は神をまつるにも、祖先まつるにも物質のめあてつくるであろうがな。それはまだまだ未熟な事ぞ。 死後に於ても、現実界に自分がある。それは丁度、生きてゐる時も半分は霊界で生活してゐるのと同じであるぞ。自分の衣は自分の外側であるぞ。自分を霊とすると、衣は体、衣着た自分を霊とすれば家は体、家にゐる自分を霊とすれば土地は体であるぞ。更に祖先は過去の自分であり、子孫は新しき自分、未来の自分であるぞ。兄弟姉妹は最も近き横の自分であるぞ。人類は横の自分、動、植、鉱物は更にその外の自分であるぞ。切りはなすこと出来ん。 自分のみの自分はないぞ。縦には神とのつながり切れんぞ。限りなき霊とのつながり切れんぞ。故に、神は自分であるぞ。一切は自分であるぞ。一切がよろこびであるぞ。 霊界に於ける自分は、殊に先祖との交流、交渉深いぞ。よって、自分の肉体は自分のみのものでないぞ。先祖霊と交渉深いぞ。神はもとより一切の交渉あるのであるぞ。その祖先霊は神界に属するものと幽界に属するものとあるぞ。中間に属するものもあるぞ。神界に属するものは、正流を通じ、幽界に属するものは外流を通じて自分に反応してくるぞ。正流に属する祖先は正守護神の一柱であり、外流に加はるものは、副守護神の一柱と現はれてくるのであるぞ。外流の中には、動植物霊も交ってくることあるぞ。それは己の心の中にその霊と通ずるものあるためぞ。 一切が自分であるためぞ。常に一切を浄化せなならんぞ。霊は常に体を求め、体は霊を求めて御座るからぞ。霊体一致が喜びの根本であるぞ。一つの肉体に無数の霊が感応し得るのざ。それは霊なるが故にであるぞ。霊には霊の霊が感応する。又 高度の霊は無限に分霊するのであるぞ。 二重三重人格と申すのは、二重三重のつきものの転換によるものであり、群集心理は一時的の憑依霊であると申してあろうがな。霊が元と申してくどう知らしてあろうが。人間は現界、霊界共に住んで居り、その調和をはからねばならん。自分は自分一人でなく、タテにもヨコにも無限につながってゐるのであるから、その調和をはからねばならん。それが人間の使命の最も大切なことであるぞ。 調和乱すが悪ぞ。人間のみならず、総て偏してならん。霊に偏してもならん。霊も五、体も五と申してあらう。ぢゃが主は霊であり体は従ぞ。神は主であり、人間は従であるぞ。五と五と同じであると申してあろう。差別則平等と申してあらう。取り違い禁物ぞ。 神は愛と現はれ、真と現はれるのであるが、その根はよろこびであるぞ。神の子は皆よろこびぢゃ。よろこびは弥栄ぞ。ぢゃがよろこびにも正流と外流とあるぞ。間違へてならんぞ。正流の歓喜は愛の善となって現はれて、又 真の信と現はれるぞ。外流のよろこびは愛の悪となって現れるぞ。何れも大神の現れであること忘れるなよ。 悪抱き参らせて進むところにマコトの弥栄あるのであるぞ。神は弥栄ぞ。これでよいと申すことないのであるぞ。大完成から超大大完成に向って常に弥栄してゐるのであるぞよ。宇宙は総てに於ても、個々に於ても総てよろこびからよろこびに向って呼吸してゐるのぞ。よろこびによって創られてよろこんでゐるのであるぞ。故によろこびなくして生きないぞ。合一はないぞ。 愛は愛のみではよろこびでないぞと申してあろう。真は真のみでは喜びでないと申してあろうが。愛と真と合一し、ヽするところに、陰と陽と合一、弥栄したところによろこびあるのぢゃぞ。』(冬の巻 第一帖)