もてまこと またらかたみし
  いつのめの ついしみたから たまとこまても

(持て誠 曼荼羅型見し 伊都能売の 対し御宝 珠何処までも)

解説

曼荼羅(まだら)は「(梵語maṇḍala 輪円具足・道場・壇・本質などと訳す)諸尊の悟りの世界を象徴するものとして、一定の方式に基づいて、諸仏・菩薩および神々を網羅して描いた図。四種曼荼羅・両界曼荼羅など多くの種類がある。もともと密教のものであるが、浄土曼荼羅や垂迹(すいじゃく)曼荼羅、日蓮宗の十界(じっかい)曼荼羅のように、他にも転用される。まんだら。おまんだら。」、対す(ついす)は「対応させる。また,調和する。」、珠(たま)は「美しい宝石類。多くは彫琢(ちょうたく)して装飾とするもの。」の意味です。

余談

この歌は、霊界物語の下記部分を読んで、それをモチーフに書いた歌です。

『霊界物語 第17巻 第3篇 鬼ケ城山 第16章 城攻』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」さん)


雑感

この章に「吾加米彦の誠心は 火にも焼けない又水に 溺れもせない如意宝珠」とあって、「誠心=如意宝珠」とあるが、何だか納得してしまった。

火水伝文参照。

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 今までの世は、悪の力が強ければ強き程、上へ上へと上がれた世なれど、既に悪の世は終わりて居るのぞ。今今に悪に見ゆるはこ度の大掃除の舞台造り由、勘違い致してまだまだ悪の世が続く思いて、好い加減なことをなして居ると、残念では済まなくなるから、今今に心入れ替えて、清まれる程に心鍛えて下されよ。

 新しき御代は、汝等も含め万象万物マコトのもので無くれば、生くるは適わぬ御代にござるから、何事も上から下までマコトがキリリと立て分けられて何でも透けりて解かる御代で御ざるから、人民様皆々ご安心なされて得心なされて全く口舌の無いご苦労も悩みもない、嬉し楽しの歓喜弥栄の御代となりて来るのじゃ。マコト持ち来た汝等が、幾久しく待ちて居りたは知りておるのぞ。嬉し慶び取りて善いのじゃぞ。新しき御代に入るれば、もはや悲しき目には合わせぬ由、ミロク代至るまで今暫しの辛抱じゃ。富士動くまで何がありても堪えて下されよ。死に急ぎなさるで無いぞ。時至りなばこの方とミロクの岩戸を共に開かん。

 こはマコトの事であるぞ。安楽な身欲な思いにある者は、今今にこのフミ誰ぞ他のお方に渡しておくれ。汝には関わり無き御代ざ思うがよいぞ。脅しで無いぞ。か程きつう申すは、人民様は近欲なから、思いの一分なりと叶えばなぞと申して欲少なき如く申して居るが、この方から見あれば臭き心根でござるぞ。そはマコトのことは必ず成就致すを知らせあるに、マコトを鳴り成らせるは今の人民様には大層な難儀にござるから、難儀な事は程々に気楽に楽しんで出来るなら、余りに酷きザマにならぬ程に、思いの一分なりと叶えば儲けものと、心底思いて居る由、ご自分のご都合の宜しきところだけを、つまみ食らう算段が見え見えでござるからぞ。もはや身欲丸出しの見苦しき姿にも気付けん程の曇りザマでござる。 

 そう成りて居りてはフミにてヤ和すも、母にてヤ和すも出来んから、鬼となりてヤ和す由、一挙に一度で致す三歳苦難のタテカエまで控えて居れ、申して居るのじゃ。大層な難儀はこの方に安心致してお任せ下され居れば、それで善いのじゃが、こ度の汝ご自身のマコトは、どうありても汝ご自身で取りて下さらねばならぬ由の伝えフミであるぞ。今までと同じような思いでありたら危ういぞ。

 赤き心から、少しでも早くこの世にミロクのマコトを現したく思い願いつる者は、思いの一分で良いなぞとは決して申しは致さんぞ。彼の者はマコトの全くの顕現を願い望みてござるのじゃ。身欲を控えた神の御子様じゃ。神と共にござる。

 少しは恥を知りて下されたなら、口を慎み、心を慎み、行を慎みて、マコトの方のお邪魔をならさぬ様、控え従いて、汝のなさねばならぬ事どもに気付きて下されよ。〔足場〕の〔足場〕の〔足場〕の【あ】から始める事ぞ。三真釣り持ち行く事でござるよ。神々も人民様もここより始まりここに終わるのでござるから、汝も共に参るが善いぞ。響き上ぐりたら、上ぐりた相応に善き方に向けてやるぞ。

 新しき御代申すはマコトのハキリ立ちてる代にござるから、真釣りの何かが善く解かるのじゃが、今様の世申すはマコトの何一つ立ちて居らぬ世由、マコトの何かが解からぬ様になりてしもうて居るのぞ。それ由の行いでござる。言の葉にては必ず取り違え致す由の行いでござる。三真釣り持ち行く行いは、行にて真釣る響きに戻し鳴らせるがそのミチじゃ。和する響き段々に鳴り鳴り響く様に成り鳴りて、汝のミロクヘ結び成る、カムナガラノミチにござるよ。

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 マコト真釣ろうてあれば、たとえ汝が暑き地にあろうが、寒き地にあろうが、汝に暑き寒きは無いのぞ。そは汝が暑き思わば涼けさが寄りて参るからぞ。汝が寒き思わば暖かきが添いて来るのじゃ。今ザマの汝等に、こを解かれ申すはご無理ご難題なるを知りては居るなれど、こが如きがウソにてあらば、この世に神は座しまさん。真釣り申すは歓喜弥栄じゃ申して居ろうがな。不都合はどこにも無いのじゃ。今ザマの如くに、汝ご自身が暑きを避け寒きを避けむ必要はどこにも無いのじゃ。なれど身欲に囚われあれば話は別じゃ。

 人民様はこに囚われあるから、我知らずとんでもないことを平気で成し参り来たのであるよ。在りて有る総ての響きは大神様の授けものじゃ。そが由、総てに感謝致し一如に真釣ろうが、生かされある汝等の初発のミチにありたものを、汝等は真先に身欲に走りたのじゃ。身欲と感謝は裏表にござれば、感謝あれば身欲生ぜず。身欲あれば感謝生じぬのじゃ。こは解かるでござろうが。感謝は一如に真釣ろう響きにて、身欲はどっちが損か得か、どっちが苦か楽かに分かれ進む分裂の響きにてあるぞ。こが汝等の使い居る知恵の基にござるぞ。こを『分かつ知』申すなり。末代一如に真釣ろえぬ響きでござるよ。こが『あやま知』産み成す母体にてござるのじゃ。汝等が《身欲》囚われ居るから、せっかくのアタマが『あやま知』に走るのじゃ。もったい無い事をなさらいで下されよ。

 善いか、汝等はどっちが苦か、どっちが楽かの快欲に囚われて居る由、総てを二つに分け進み行くのであるよ。神々も汝等も、自らにご苦労致して産まれ出られた訳ではござらぬから、初めから真釣るマコトを知り得ぬも無理なくありたなれど、ちいとはご苦労なされてみれば、感謝の響きも鳴り出して、真釣ろう響きに入るも出くたでござろうに、汝等は楽ばかりを追い求める様になりたが由、苦を知る事になりたのじゃ。感謝の一如に真釣ろう響きにあれば、苦楽一如にあるだけなれば、苦も楽も知る事は無かりたのであるぞ。苦楽に分裂する事は無かりた申して居るのぞ。至楽あるのみでござりたのじゃ。なれど汝等は身欲の分裂する響きに入りて居りた由、どっちが楽かと比ぶるから、楽を知るのに苦も知る事になりてしもうたのじゃ。既にこに感謝の響きは無かろうまい。『分かつ知』で知る言うは、一如に真釣ろうハタラキを二つに分けて知る申す事にてあるのぞ。どっちが早きか比ぶるから、遅きも知る事になるのじゃ。どっちが善きかと比ぶるから、悪きも知る事になるのであろうがな。こも既に感謝の響きは無かろうぞ。心が曇りたが由でござるよ。苦ある悪ある申すなれば、そは『一如に真釣ろう響きを分け知りた』そが事にてごぎろうが。そが真釣りを外した証にてもあるのざぞ。そが汝等の知恵の正体にてもござるのじゃ。なれば『苦』申すは、そが知恵で汝等ご自身が創り出した『苦』なるを知りて下されよ。元つマコトの神真釣りには『苦』は影さえ無いからであるぞ。なれば初発の『苦』より今今に至る総ての『苦』申すものは、そこそ総て汝等の創り出せし『苦』にてあろうがな。こはゆめ忘れて下さるなよ。今に至りては『苦』あるを当たり前ざ思いてござらぬか。『苦』を『楽』に変え行くが人生ざ思いてござらぬか。よう曇りなされたなぁ。

 汝等は『苦』を自らの力にて、『楽』に変え来た如く思い成して居られようが、そうでは無いぞ。逆さじゃ。『楽』に変えた思いて『苦』を創りて居るのじゃぞ。善いか、よう聞きやれよ。自らが創り出せし『苦』を、そも元々無きが『苦』を、『楽』に変え行く申すは、いかなる事にてござろうか。自らが創り出せし『苦』申すは、真釣りを外したが由に現れたのでござるから、汝等のどちらが楽じゃ、どちらが得じゃと比ぶる『あやま知』分かつやり方で、いかで『楽』に変え行く申すのぞ。真釣りを外すやり方では、なさり様が逆様でござろうが。そは『苦』を『楽』に変え行きたにあらざるぞ。現れなされた『苦』を更に、新たな『苦・楽』に分けしめて、新たな『楽』を選び作りたに過ぎぬのじゃ。そは更に『あやま知』病みた申す事にてござろうが。真釣りを更に外し行きた事にてござろうが。真釣り外せば、情けのメグリが『苦』となりて、真釣り外したる事どもを、知らせ参るがお仕組みなれば、そは、新たな『苦』を自ら呼び入れた申すに同じ事にてござろうが。汝等は生くるに現る『苦』を更に、身欲を基の『苦』と『楽』の二つに新に分け進みて参りたのじゃ。ちいとも初発の『苦』は真釣ろい戻れぬばかりか、汝等が『分かつ知』で進めば進む程、新な『苦』を創り続けて参りた申すも解かるでござろうが。逆に分け進みた事どもを、一つに集めなおせば良い等と情け無きことを申して下さるなよ。同じ事じゃ。分け知る世界が見え来るだけで、『苦』はちいとも減りもさん。増えるだけぞ。末代真釣る一如には、至れぬ愚かな浅知恵じゃ。人民様、時が無いのじゃ。好い加減に目を覚まして下されよ。メグル苦楽の輪廻に入りてしもうて居るぞ。

 ついて参りて居るか。人民様の囚われ居る『あやま知』申すは、マコト、オカシキ事にてあるから、無理に解かる必要は無いのじゃが、アタマで着て。アタマで食べて。アタマで住み居る。救い難き者共にハキリ『あやま知』の正体を伝えねばならぬ由、今暫しくどう申すも許して下されよ。ス直に元つ天地の大恩に感謝を致し、今までの有り様を心底より、詫びて改心出くる程の者なれば、こが事は解かり取れねでも善いぞ。難しく思いたら、解かるとこだけ取れば善いのじゃ。心配致すで無いぞ。この方の申したきは、マコトの改心を持ちて三真釣りなされて欲しくあるだけにござるから、【口と心と行い】を違えず一如に真釣ろうご苦労を致して下されば、それで善い。そが一番ぞ。この方もそが一等嬉しいのじゃ。ここまで良く良くついて参りた。もう後少しじゃ。ゆっくり、ゆっくりついて参られよ。この方がお手を引いて居る由、手を離すで無いぞ。解かりたな。

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また言霊を「言玉」とすれば、言霊(言玉)とは、玉のように、その場を〇(=調和)させる言葉の意味、という見方も出来るのかもしれん。