きけんしり たいかんしくふ
  ちしりけり しちふくしんか いたりしんけき

(貴顕知り 体感し九分 智知りけり 七福神が 至り神劇)

解説

貴顕(きけん)は「身分が高く、名声のあること。また、そういう人や、そのさま。」、七福神は「福徳の神として信仰される七人の神。大黒天・恵比須(えびす)・毘沙門天(びしゃもんてん)・弁財天・福禄寿・寿老人・布袋(ほてい)の七神。」の意味です。

余談

この歌は、霊界物語の下記部分を読んで、それをモチーフに書いた歌です。

『霊界物語 第65巻 第5篇 讃歌応山 第26章 七福神』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」さん)


雑感

「智」は「日+知」なので、日知り(=ひじり=聖)に通じる感じがする。

ちなみに「聖」の象形は「耳+口+王(=背伸びした人の象形)」で、「神意に耳を傾けよく聞くことのできる人」、「高い学識・人徳を持つ理想的な人」を意味するのだそうだ。

「智」と聞くと、何やらテストで100点取れる人や、いろんな事を知っている人のこと、という印象を受けるが、数学や天文学や物理学などの○○学と呼ばれる学問の、その根本にある法則やシステムは、全て神様から来ているのだ、という考え方に立てば、智がある、ということは即ち、神意に耳を傾ける、というと同義でもあるような気がする。

神意に耳を傾ける、というと、何やら呪術的なうさん臭さを感じるが、夜空の星などを観察して、その法則を知ることを「天文学」と呼んだり、りんごが落ちるを見て重力を発見するのを「物理学」と呼んだりするのであれば、その根本の部分の、星が規則的に回っているとか、物が下におちる「重力」が存在しているとか、心臓が一人でに動いているとか、そのシステムは一体誰が作ったのか、と言えば、やはり神様が作った、としか思えないのだ。

たとえ、自律神経があるから心臓が動いている、という、如何にももっともらしい説明を受けたとしても、じゃあ、どうしてその自律神経があるのか? という所を突き詰めていくと、神の存在を認識せざるを得ないわけだ。

まさにその霊(ひ)を知る、神を知るということが、知力が高い、ということになるのではないかと思う。

だからたとえば、感謝することは神写(かんしゃ)することであり、神を信じることは神知る(しんじる)ことでもあるような気がするのだ。また、何かを感じることも神知る(かんじる)ことであり、何かを考えることもまた、神帰る(かんがえる)ことでもあるような気がするのだ。

日月神示参照。

『新玉の 真珠の波も 草も木も 春立ちそめて よみかへりけり。 今の科学は科学のことは判るが、それより上のことは判らん。今の科学はあるものがあると云ふことだけしか判らんのぢゃ。よい求めにはよい感応、よい感応によい働き、よい理解となり、よい生活 生れる。間違った求めには間違った神、間違った生活 生れるぞ。道理ぢゃナア。窮屈であってはならん。しかつめらしく固くなってゐてはならんぞ。笑ひの道、喜びの道にこそ神のハタラキあるのぢゃ。宿命は宿されたもの。一つのワクに入ってゐるのであるぞ。運命は自分で切りひらくこと出来るぞ。磨け磨け、ミタマ磨き結構。信念だけでは行き詰るぞ。』(春の巻 第三十三帖)

『貰うた神徳に光出す人民でないと、神徳をわれよしにする人民にはおかげやらん。自分が自分で思ふやうになるまいがな。自分が自分のものでないからぞ。自分のものなら自由になると申してあらうが。道を進めば楽に行ける。道行かんで山や畠や沼に入るから苦しむのぞ。神の仕組の判る人民二三分出来たら、いよいよにかかるぞ。未だ未だ改心足らん。神せけるぞ。魂にめぐりあると何してもグラリグラリと成就せんぞ。めぐりのままが出て来るのであるぞ。心のよきもの、神にまつりて、この世の守護神と現はすぞ。理屈は判らんでも真理は掴めるぞ。信念と真念は違ふぞ。信念は自分のもの。信念超えて真念あるぞ。任せきったのが真念ぞ。迷信が迷信でなくなることあるぞ。ぢゃと申して信念がいらんのでないぞ。もう待たれんから判りた人民一日も早く奥山に参りて神の御用結構につとめあげて下されよ。世界中を天国にいたす御用の御役、つとめ上げて下されよ。人間の念力だけでは何程のことも出来はせんぞ。その念力に感応する神の力があるから人間に判らん、びっくりが出て来るのざぞ。』(黄金の巻 第七十四帖)

『八合目あたりに参ると総ての様子が、ほぼ見当つくぞ。それ迄は誰でもよくわからんもんぢゃ。これと云う先達があったら、先達の云うこと、云う通りについて行けよ。おかしい先達は始めからおかしいぞ。苦労し、手をかけ、金かけるほどよいもの出来るぞ。信念越えて自分より上のものにまかせきったのが理解であるぞ。信念だけでは何事も出来ん。確信は理解からぞ。』(春の巻 第二十七帖)

『世界の臣民 皆手引き合って行く時来た位 申さいでも判ってゐるであろが、それでもまだまだ一苦労二苦労あるぞ、頭で判っても肚で判らねば、発根(ほっこん)の改心出来ねば、まだまだ辛い目に会ふのざぞ、人民 自分で首くくる様なことになるのざぞ、判りたであろ。天の御三体の大神様と ちのおつちの先祖様でないと今度の根本のお建替出来んのざぞ、判りても中々判らんであろがな。洗濯足らんのであるぞ。今度はめんめにめんめの心改めて下されよ、神は改めてあるが、神から改めさすのでは人民可哀想なから めんめめんめで改めて下されよ、改まっただけ おかげあるのざぞ。今度の岩戸開いたら末代の事ざぞ、天地の違ひに何事も違ふのざぞ。信者引張りに行って呉れるなよ、神が引き寄せるから、役員の所へも引き寄せるから、訪ねて来た人民に親切尽くして喜ばしてやれと申してあろが、人民喜べば神嬉しきぞと申してあろが、草木喜ばしてやれよ、神示よく読めばどうしたら草木動物喜ぶかと云ふことも知らしてあるのざぞ、今迄の心 大河に流してしまへば何もかもよく判って嬉し嬉しとなるのざぞ、まだまだ世界は日に日にせわしくなりて云ふに云はれん事になって来るのざから、表面(うわつら)許り見てゐると判らんから、心大きく世界の民として世界に目とどけてくれよ、元のキの神の子と、渡りて来た神の子と、渡りて来る神の子と三つ揃ってしまはねばならんのぞ、アとヤとワと申してあるが段々に判りて来るのざぞ。実地のことは実地の誠の生神でないと出来はせんぞ、臣民はお手伝ひぞ、雨風さへどうにもならんであろうが、生物 何んで息してゐるか、それさへ判らいで居て何でも判ってゐると思ってゐるが鼻高ぞと申すのざ、今の内に改心すれば名は現はさずに許してよき方に廻してやるぞ、早う心改めよ。』(雨の巻 第四帖)