まさるたん せいはくこんほ
  つにはらは につほんこくは いせんたるさま

(勝る胆 清白坤母 頭に肚は 日本国は 夷然たる様)

解説

胆(たん)は「気力。度胸。きもだま。」、清白(せいはく)は「きよらかで汚れのない・こと(さま)。」、坤母(こんぼ)は「母。」、頭(ず/づ)は「かしら。あたま。こうべ。」、肚(はら)は「動物体で、頭・胸に続き、それらと尾との間にある部分。哺乳類では胸腔と骨盤との間で、胃・腸などの内臓を容れる。」、日本国(にっぽんこく)は「日本の国。にほんこく。」、夷然(いぜん)は「落ちついて動じないさま。平然。」の意味です。

余談

この歌は、下記記事を読んで、それをモチーフに書いた歌です。

『日本は沈没しない(蟇目の法)』(「moto MEMO BOX」さん)


雑感

坤母は、辞書の意味では「母」だが、坤(こん)自体に「大地」の意味があることから、ニュアンス的には「母なる大地」と解釈したい。ちなみに中国語で「坤母」は、母の他に大地の意味もあるとのこと。

最近、ドラマ「日本沈没ー希望のひとー」を見ているのだが、ものすごく面白い。

wikipediaを見てみると地震学者が監修に入っているのを見て、妙に納得した。ドラマの中での地震の起きる流れが、とてもリアルだったからだ。

それ以上に、日本がいざ沈没するとなった時、政府はどういう手を打つのか、国民はどう受け止めるのか、日本企業はどのように動くのか、そして海外の主要国(アメリカや中国)はどのような駆け引きをして来るのか、など、とてもリアルに描かれているのではないかと思った。

あまりにリアルなので、地震学者が監修に入っているのと同じで、外交や危機管理対応などに詳しい有識者も、同じく監修として入っているのではないだろうか。

またドラマに出て来る『海底資源採掘事業「COMS(コムス)」』は、現実世界で実際に活動している『地球深部探査船「ちきゅう」』がモデルのように思う。

このドラマを見ていて一番の収穫だったのは、「日本」という国がひとたび無くなった時、日本国民がどのような悲惨な目に直面するのか、というリアルなシミュレーションを、曲がりなりにも想像出来たことだ。

またそうなった時には、祖国がなくなったユダヤ民族のような歴史を辿ることになる、ということも忘れてはならないと思う。

日月神示に「外国を日本の地面にせなならん、日本とにほんと取違ひすな。」とあるが、この「日本沈没」だけは、何としてでも避けなければならない。

日月神示参照。

『日本には五穀、海のもの、野のもの、山のもの、皆人民の食ひて生くべき物、作らしてあるのぢゃぞ、日本人には肉類禁物ぢゃぞ。今に食物の騒動激しくなると申してあること忘れるなよ、今度は共喰となるから、共喰ならんから、今から心鍛へて食物大切にせよ、食物おろがむ所へ食物集まるのぢゃぞ。ひたすらに神にすがりてお詑びせよ、それより他に今は道なし。外国を日本の地面にせなならん、日本とにほんと取違ひすな。何事も神第一ぞ、神よそになすこと云ふことスコタンばかりぢゃ。分け隔てあると思ふは我が心に分け隔てあるからぢゃぞ、世界中のそれぞれの国、皆、氏神様、産土様、愈々天の命令通りにかかり下されよ、もう待たれん事に時節参りて居るぞ、世界の人民 皆泥海の中に住んでゐるのぢゃぞ、元の水流して清めてやらねばならんなり、泥水を泥水と知らずに喜んでゐるので始末に困るぞ、清い水に住めん魚は誠の魚ではないのぢゃぞ。つらい役は因縁のミタマに致さすぞ。心得なされるがよいぞ。』(梅の巻 第十四帖)

また日月神示には、日本沈没とまでいかなくても、大地震によって、(お土の上に堅めてある)アスファルトが剥がれて、土が剥き出しになることも書かれてある。江戸が元のすすき原、と書いてある。そのお土をみんな、裸足で踏むことよって、足から気が通うようになる、とも書かれてある。

一方で、一人前になれば、お土踏む必要はない、という旨のことが書かれてある。おそらく皆が神様とつながれば、首都圏の大震災は起こす必要はない、ということだろう。

日月神示参照。

『この方オホカムツミノ神として書きしらすぞ。病あるかなきかは手廻はして見れば直ぐ分かるぞ、自分の身体中どこでも手届くのざぞ、手届かぬところありたら病のところ直ぐ分るであろうが。臣民の肉体の病ばかりでないぞ、心の病も同様ぞ、心と身体と一つであるからよく心得て置けよ、国の病も同様ぞ、頭は届いても手届かぬと病になるのぞ、手はどこへでも届くやうになりてゐると申してあろが、今の国々のみ姿見よ、み手届いて居るまいがな、手なし足なしぞ。手は手の思ふ様に、足は足ぞ、これでは病直らんぞ、臣民と病は、足、地に着いておらぬからぞ。足 地に着けよ、草木はもとより、犬猫もみなお土に足つけて居ろうがな。三尺上は神界ぞ、お土に足入れよ、青人草と申してあろうがな、草の心に生きねばならぬのざぞ。尻に帆かけてとぶようでは神の御用つとまらんぞ、お土踏まして頂けよ、足を綺麗に掃除しておけよ、足よごれてゐると病になるぞ、足からお土の息がはいるのざぞ、臍(へそ)の緒の様なものざぞよ、一人前になりたら臍の緒切り、社(やしろ)に座りて居りて三尺上で神につかへてよいのざぞ、臍の緒切れぬうちは、いつもお土の上を踏まして頂けよ、それほど大切なお土の上 堅めているが、今にみな除きて了ふぞ、一度はいやでも応でも裸足(はだし)でお土踏まなならんことになるのぞ、神の深い仕組ざから あり難い仕組ざから 喜んでお土拝めよ、土にまつろへと申してあろうがな、何事も一時に出て来るぞ、お土ほど結構なものないぞ、足のうら殊に綺麗にせなならんぞ。神の申すやう素直に致されよ、この方 病直してやるぞ、この神示よめば病直る様になってゐるのざぞ、読んで神の申す通りに致して下されよ、臣民も動物も草木も病なくなれば、世界一度に光るのぞ、岩戸開けるのぞ。戦も病の一つであるぞ、国の足のうら掃除すれば国の病直るのぞ、国、逆立ちしてると申してあること忘れずに掃除して呉れよ。上の守護神どの、下の守護神どの、中の守護神どの、みなの守護神どの改心して呉れよ。いよいよとなりては苦しくて間に合はんことになるから、くどう気つけておくのざぞ。病ほど苦しいものないであらうがな、それぞれの御役忘れるでないぞ。天地唸るぞ、でんぐり返るのざぞ、世界一どにゆするのざぞ。神はおどすのではないぞ、迫りて居るぞ。』(天つ巻 第二十九帖)

『知恵でも学問でも、今度は金積んでも何うにもならんことになるから、さうなりたら神をたよるより他に手はなくなるから、さうなりてから助けて呉れと申しても間に合わんぞ、イシヤの仕組にかかりて、まだ目さめん臣民ばかり。日本精神と申して仏教の精神や基督教の精神ばかりぞ。今度は神があるか、ないかを、ハッキリと神力みせてイシヤも改心さすのぞ。神の国のお土に悪を渡らすことならんのであるが、悪の神わたりて来てゐるから、いつか悪の鬼ども上がるも知れんぞ。神の国ぞと口先ばかりで申してゐるが、心の内は幽界人(がいこくじん)沢山あるぞ。富士から流れ出た川には、それぞれ名前の附いてゐる石置いてあるから縁ある人は一つづつ拾ひて来いよ、お山まで行けぬ人は、その川で拾ふて来い、みたま入れて守りの石と致してやるぞ。これまでに申しても疑ふ臣民あるが、うその事なら、こんなに、くどうは申さんぞ。因縁の身魂には神から石与へて守護神の名つけてやるぞ。江戸が元のすすき原になる日近づいたぞ。てん四様を都に移さなならん時来たぞ。江戸には人住めん様な時が一度は来るのぞ。前のやうな世が来ると思うてゐたら大間違ひぞ。江戸の仕組すみたらカイの御用あるぞ。いまにさびしくなりて来るぞ。この道栄えて世界の臣民みなたづねて来るやうになるぞ。』(下つ巻 第十六帖)

『いづくも土にかへると申してあろうが、東京も元の土に一ときはかえるから、その積りでゐて呉れよ。神の申したこと違はんぞ。東京は元の土に一時はかへるぞ、その積りで用意して呉れよ。』(上つ巻 第十一帖)

※「いづくも」はおそらく「何処(いづく)も」の意味で、「(日本中)が何処(どこ)も土にかへる」という意味となり、日本中が大地震に見舞われる、と解釈出来るのではないかと思われる。

『神の堪忍袋 切れるぞよ、臣民の思ふやうにやれるなら、やりて見よれ、九分九厘でグレンと引繰り返ると申してあるが、これからはその場で引繰り返る様になるぞ。誰れもよう行かん、臣民の知れんところで何してゐるのぞ、神には何も彼も分りてゐるのざと申してあろがな、早く兜脱いで神にまつはりて来いよ、改心すれば助けてやるぞ、鬼の目にも涙ぞ、まして神の目にはどんな涙もあるのざぞ、どんな悪人も助けてやるぞ、どんな善人も助けてやるぞ。江戸と申すのは東京ばかりではないぞ、今の様な都会みなエドであるぞ、江戸は何うしても火の海ぞ。それより他 やり方ないと神々様申して居られるぞよ。秋ふけて草木枯れても根は残るなれど、臣民かれて根の残らぬやうなことになりても知らんぞよ、神のこのふみ早う知らしてやって呉れよ。八と十八と五月と九月と十月に気つけて呉れよ、これでこの方の神示の終わりぞ。この神示は富士(二二)の巻として一つに纒(まと)めておいて下されよ、今に宝となるのざぞ。』(富士の巻 第二十七帖)

この日本国が神様に見放されて、仮に日本沈没するとなれば、それは日本の国が、ミロクの世を実現させるという、本来の日本の役割を全く果せなかったからだ、ということの証明になるのではないかと思う。

出口王仁三郎聖師が張ったとされる「蟇目の法」があるからといって、それにあぐらをかいていてはならないと思う。

下記参照。