ねろはるかなり しらやまの
そひえたつみゆ てんすうへ
ことほくよあけ おもわゑむ
めをせいゐきに さちふれぬ

嶺ろ遥かなり 白山の
聳え立つ見ゆ 天枢ヘ
言祝ぐ夜明け 面輪笑む
陰陽聖域に 幸触れぬ

解説

嶺ろ(ねろ)は「峰(みね)。」、聳え立つは「山などがとりわけ高く立つ。」、天枢(てんすう)は「天の中心。」、言祝ぐ(ことほぐ)は「言葉で祝福する。祝いの言葉を述べて、幸運を祈る。」、面輪(おもわ)は「顔。顔面。」、笑む(ゑむ)は「にっこりと笑う。」、陰陽(めを)は「女と男。妻と夫。」、聖域(せいゐき)は「神聖な場所・区域。」、幸(さち)は「さいわい。しあわせ。幸福。」の意味です。

余談

この歌は、下記動画の曲を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

『組曲「白山」御阿礼』(you tubeより)
https://youtu.be/y62xUiHEuMA

雑感

幸(さち)は幸福という意味で使っているが、そもそも「幸」の象形は上下から発せられる気を描いた会意文字なのだそうだ。つまり、天から発せられる「気」と地から発せられる「気」の、二つの気が和合するという意味に見て取れる。

根拠はないが、私の感覚では天と地の二つのキが合わさって、ギ(義)が出て来るのではないかと見ている。義はご存知の通り「人のおこないが道徳・倫理にかなっていること。」という意味だ。

今まで世に出ていなかった義の者が、誠の者がこれから表に現れて来て、人の知らない結構な働きをするのだろう。

さらに義には「言葉の意味」という意味もある。「言葉の意味」の解釈に苦しむが、そのまま取れば言葉(神)の意(心)の味となる。

「味」は飲食した時に感じる舌の感覚の意味であるが、味わい深いと表現するなど「物事を深く知ることによって初めてわかるおもしろみ。深い所に潜んでいるすばらしさ。味わい。」という意味もある。

自身が体験し、理解したことのみが自らの身魂の糧になると考えれば、これまで義の道、誠の道を歩んで来た人は、その人にしかわからない物事の見方や心境があり、それによって最期幸せを手にすることが出来る、という意味のように感じる。

それは他者からすれば絶対に判らない、体験することが出来ないもので、まさにその人と神との、一対一の関係の中で築き上げられたものになっているはずだ。最後は、その人の心と神の心とが一つに溶け合って、幸せな心境を味わえるということなのだろう。

また大本神諭や日月神示では「一厘の仕組み」というものがある。それら神典神示では、この仕組みで手のひらを返す、今までの世をひっくり返すという意味のことが書かれてある。そしてこれは言霊のことだとも明かされている。どういう仕組みかは判らないが、この仕組みも今後出て来るということなのかもしれない。

どちらにせよ、神示で言う結構な恐い時節が来たように思う。

日月神示参照。

『神の国八つ裂きと申してあることいよいよ近づいたぞ、八つの国一つになりて神の国に攻めて来るぞ。目さめたらその日の生命(いのち)おあづかりしたのざぞ、神の肉体、神の生命 大切せよ。神の国は神の力でないと治まったことないぞ、神第一ぞ、いつまで仏や基(キリスト)や色々なものにこだはってゐるのぞ。出雲の神様 大切にありがたくお祀りせよ、尊い神様ぞ。天つ神、国つ神、みなの神々様に御礼申せよ、まつろひて下されよ、結構な恐い世となりて釆たぞ、上下ぐれんぞ。』(地つ巻 第六帖)

『この道分りた人から一柱でも早う出てまゐりて神の御用なされよ。どこに居りても御用はいくらでもあるのざぞ。神の御用と申して稲荷(いなり)下げや狐つきの真似はさせんぞよ。この道はきびしき行(みち)ざから楽な道なのぞ。上にも下(しも)にも花さく世になるのざぞ、後悔は要らぬのざぞ。カミは見通しでないとカミでないぞ、今のカミは見通しどころか目ふさいでゐるでないか。蛙(かえる)いくら鳴いたとて夜あけんぞ。赤児になれよ、ごもく捨てよ、その日その時から顔まで変るのざぞ、神烈しく結構な世となりたぞ。』(地つ巻 第十四帖)

『これからは、人民磨けたら、神が人民と同じ列にならんで経綸(しごと)致さすから、これからは恐ろしい結構な世となるぞ。もう待たれんから、わからねばどいてみて御座れと申してあろが、わからんうちに、わかりて下されよ。肉体あるうちには、中々改心は出来んものぢゃから、身魂にして改心するより外ない者 沢山あるから、改心六ヶ敷いなれど、我慢してやりて下されよ。時節には時節の事もいたさすぞ。時節結構ぞ。』(風の巻 第十帖)

『春が来れば草木に芽が出る。花が咲く。秋になれば葉が枯れるのぢゃ。時節よく気付けて取違ひせんよういたしくれよ。時節程結構なものないが、又こわいものもないのであるぞ。丁度 呼吸のようなもので一定の順序あるのぞ。吸の極は呼となり、呼の極は吸となるぞ。これが神の用(ハタラキ)であるから、神の現われの一面であるから、神も自由にならん。この神も時節にはかなわんのであるのに、そなたは時々この時節を無視して自我で、或ひは時節を取違ひして押しまくるから失敗したり怪我したりするのぢゃぞ。素直にしておれば楽に行けるようになってゐるぞ。時まてばいり豆にも花さくのであるぞ。水が逆に流れるのであるぞ。上下でんぐり返るのであるぞ。上の人が青くなり、下の人が赤くなるのであるぞ。取りちがひないように理解して下されよ。』(月光の巻 第五十八帖)

『高天原に 千木高しりて 仕へまつらむ。 岩戸(言答)のひらけた、その当座は、不合理に思へることばかりでてくるぞ、逆様の世界が、この世界に入り交じるからであるぞ、親よりも子の方が早く目さめるぞ、子が親となるぞ、さかさまの世界と申しても悪の世界ではないぞ、霊の世界には想念のままにどんなことでも出来るのであるぞ、うれしい、こわい世界が近づいて来ているのであるぞ。』(扶桑の巻 第三帖)