ぬはたまの やみよのゆつき
  ほとりより とほきつゆのよ みやのまたはぬ

(射干玉の 闇夜の斎槻 辺より 遠き露の世 宮の間束ぬ)

解説

射干玉のは「‘ぬばたま’のように黒い意から、‘黒’‘夜’‘夕’‘宵’‘髪’などにかかる。うばたまの。むばたまの。」、斎槻(ゆつき)は「神聖で清浄なツキの木。一説に、奈良県桜井市巻向(まきむく)山の一峰の名とも。いつき。」、露の世(つゆのよ)は「露のようにはかないこの世。無常な世の中。」の意味です。

余談

この歌は「大神 五重之音調」の中にある「真スサノオ」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

雑感

歌を作成するにあたっては、下記記事も参照にさせてもらった。「ぬばたま」の語感が、より一層感じられるように思う。

『「ぬばたまの」・起源としての枕詞 10』(「ネアンデルタール人は、ほんとうに滅んだのか」さん)
http://d.hatena.ne.jp/HIROMITI/20130712

一見すると判りにくいと思うので、解釈を補足したい思う。

木は本来神霊が宿る依代とされており、この場合槻(つき)は月に通じることから、月の神様の存在が導かれる。有名なのは月読尊だが、一部では「月読尊=素戔嗚尊」とされている。

素戔嗚尊と言えば、千座の置き戸を負わされた神様だが、大本や日月神示では、この神様は乱暴な神様ではなく、全ての罪を被ってこの世を陰から支えている、大変に尊い神様だと示されている。いわばこの世を裏から束ねている、肝心要の大神様というわけだ。

月の光は日の光と比べて柔らかいものだが、月の神様は和光同塵的な政策を取ると言われている。悪を可能な限り許して、善へと立ち返らせるお役目である。一方、日の神様はあまりに厳格で、悪を一切許さない。岩戸が開かれて、真(まこと)の日の神様の光が出て来ると、悪は「殺してほしい」と願うほどの強烈さだそうだ。

やがて岩戸は開かれる際には、晴れて日の出の守護となり、悪は影すら残らなくなるが、それは一方からすると、悪を助けることはもう今後一切、万劫末代無い、ということでもある。

人間心で見れば、岩戸を一日でも早く開いてほしい、となるが、神心になれば開きたくても開けない事情がある、となる。もとより一人も落としたくない神様であるから、岩戸を開いて悪を永遠の暗闇に落とすよりも、出来るだけ和光同塵的な政策を続け、その間に人々に心を澄ませてもらって、皆揃って日の出の世の世界を拝んで欲しい、と願っているように思う。

この歌は、そのような神様の、表に出たくても出られない、未だ陰からの守護にならざるを得ない苦悩を詠っているように思う。