くさのちの いまにちのたま
  かへりけり へかまたのちに まいのちのさく

(草野路の 今に地の球 還りけり 上がまた後に 真命の咲く)

解説

路(ち)は「みち。道路。」、上(へ)は「あるものの表面。うえ。」の意味です。

余談

この歌は、「風の谷のナウシカ サウンドトラック はるかな地へ・・・」の中の「ナウシカ・レクイエム」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

雑感

ナウシカたちが生きる世界は、過去の「火の7日間」と呼ばれる戦争によって、既に世界は不毛の地と化しており、通常の草や木や鳥や虫たちが居る場所を「青き清浄の地」と呼んでいた。

この「青き清浄の地」は湿地帯で、個人的には「葦原の瑞穂の国」が連想される。

止まらない放射能汚染で人は滅びるかもしれないが、きっとその環境に適応して生きる微生物も出て来るだろうと思う。そうして地上に人が住めない環境の中で、人が滅んだ後も、何らかの命が咲いていく。

というような空想をすると、なぜかとても清々しく感じられる。

思えば、野の草や山の木は、雨の日には雨を受けて、風の日には風に揺られるままに過ごしている。春の陽射しと共に芽吹き、葉を繁らせ、秋の月の清々しさと共に枯れ、落葉していく。

それにならって、人もまた遊べる時には遊び、死ぬ時には死ぬ。もう、それだけで良いような気も最近はする。

この生を謳歌するには、この死もまた謳歌しない限りは成立しないのだ。

得てして人は、日々の変化が少ない分、いつまでも変わらないまま生きるように錯覚しがちだが、死ぬ瞬間、目の前の全てを失うのだ。失うという表現すら的を得ていない。目の前の全てが無くなる。目の前の全てが一瞬にして存在しなくなるのだ。

この世に生を受けて目を見開いた瞬間、その中に初めから世界の全てが存在していたように、この世から去り死ぬ瞬間も、見ている目の前の全てが、一瞬にして存在しなくなる。

そのようなことを思う時、「今」この瞬間がひどく輝いて見えるのだ。やたらに生に執着する自分、誰かに認めて欲しいと思う自分、いつも主役になっていたい自分、その自分すら超えて、光も影も、有も無も、どちらも優しく包みながら存在しているこの世界自体が、奇跡以外の何物でもないことに改めて、否、初めて気付かされる。