みやるくれ かなしくもひか
  むゐのねの ゐむかひもくし なかれくるやみ

(見遣る暮れ 悲しくも非我 無為の音の 居向かひ黙し 流れ来る闇)

解説

暮れ(くれ)は「太陽が沈むころ。夕暮れ。また、日の暮れること。」、非我(ひが)は「哲学で、自我に対立して存在しているいっさいのもの。自我から区別された外界・環境・自然をさす。」、無為は「《(梵)asaṃskṛtaの訳》仏語。人為的につくられたものでないもの。因果の関係を離れ、生滅変化しない永遠絶対の真実。真理。」の意味です。

余談

この歌は、ゼノギアスアレンジヴァージョン-CREIDの中にある「MELKABA」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

雑感

重力(じゅうりょく)は自由力(じゆうりょく)であり、自らを由(よし)とする力のことである。これは自分を自分たらしめる力のことで、自分という意識を生み出す力の根源のことでもある。言い換えれば、自我のことだ。そこには自分しか存在して居ないため、自分を頼りにするしかない。必然的に、そこから自らのみを善し(よし)とし、自らのみが力の源泉であるという意識が芽生える。いわゆる我善し(われよし)、力善し(よし)の自分の誕生である。

そこにはまってしまうと、自分だけが善、自分だけが良ければ全て良し、数々の偉業は、力は全て自分によるものであるから、その力の強い者だけが生き残ってゆけばよい、という意識に覆われる。

その先には一体何が待っているであろうか? それは当然自らの破滅である。しかし彼らは、そのことを無意識内で承知しているがゆえに、そこから逃れようと、また我善し力善しを進めていく。死から逃れるために、際限なく生の終わりを先延ばしし、そして周りにはその本質を見破られないように、巧妙に知恵を働かせる。

こうして全てを巻き込みながら破滅していってしまうが、どう言い繕おうとも、他者から見ればそれは不調和そのものだ。この我さえ良ければ全て構わない、弱い者は潰れてもしょうがない、という思いの力、重い力、重力は、私を含めた全ての人の中に作用していると言える。

この重力から解き放たれるにはどうすれば良いか? それは至極簡単で反対のことをすれば良い。つまり、自らの心を無重力状態に持っていけば良いのだ。

しかし、自我はこれを徹底的に嫌う。無重力は無自由力(むじゆうりょく)であり、これを認めると自分の自由が全くなくなるからである。全ての力が自分に由(よ)らない所から来ており、全ての原因、由(よし)は自分では何も知覚できない「無」から来ていると認めることは、自分の無力を宣言するに等しく、この自我が、この私が、この宇宙から全く必要とされていないことを証明されてしまう、と誤解するが故に、自我は死にもの狂いで抵抗する。つまるところ、お払い箱になるのが嫌なのだ。独りぼっちはさみしいのだ。

だから自分の両手両足は、自分の自由意思で動かせていると思いたい。そう思い込むことによって、自分の意識が、自分がこの手を自由に使い、この足を自由に使っている、自分通りに動いている、そう認識することで、自分は独りではない、という安心感が生まれる。

そして、形の上では事実そうではあるが、真実はそうではない。全ては何もない「無」から来る力によって動かされているのだ。しかしこれは自我からすると「あり得ない」ことなのだ。

しかし、これを認めるだけで、死から逃れようとする意識もなくなる。自分に自由がないのだから、当然死ぬこともまた自分では決められない。

自我からすれば、それはいつ来るかわからないものであるので、恐怖そのものであるが、非我からすれば、生きることと死ぬことは同義なので、全く眼中にない。それは、この世に生を受けたのも無重力(無自由力)から来ているのだから、死ぬこともまた無重力(無自由力)で為されることを知っているからである。

それはつまり、自分の自由意思でこの世に生まれたのではないのだから、同じく自分の自由意思で、この世から去ることも出来ないということである。

ここで「では、自殺という現象はどうなのか?」と思う人もあるかもしれない。それこそ不毛な問いである。自殺とは自我の死を恐れ、その死から逃れるために肉体の死を選ぶ現象である。

だから無重力(無自由力)の為すところに由(寄)れば良いのである。自我をそこに持っていけば良いのである。

詰まるところ、自然に任せて自分のしたいことを為せば良い、となる。しかし日本では「自分勝手はいけない」「常識から外れるな」ということを教え込まれることが多いので、今度は「自分勝手はいけない」「自分を主張してはいけない」という自我が芽生えてしまうことになる。この場合、自我の死とは、自分を殺すことではなく、逆に自分の自我を出すということになる。

たとえば、イジメは何かを忌(い)み嫌って占(しめ)出すということだ。そうして独りぼっちにして攻撃する。しかしこれは上で書いたように、自我そのものが無を本能的に怖がる、独りぼっちになることを絶対的な恐怖として認識するところから来ている。自我がなくなって死ぬ恐怖である。

だからいじめる側はいじめることによって自我が満たされる。みんな当たり前に認識している常識を認識できないあいつが悪い。独りだけ空気を読めないあいつが悪い。一般常識を知らないあいつが悪い、とろくさいあいつが悪いのだ、と。

いじめられる側は、いじめる側のそのような強い自我に呑み込まれてしまう。ましてや相手は独りではなく複数である。そのような巨大な複数の自我に呑み込まれるため、「常識がない私が悪い」「とろくさい私も悪い」「いじめられるのはしょうがない」となってしまう。

だからいじめられる側は、自らの「いじめられるのはしょうがない」という自我を消して、無重力(無自由力)の為すところに由ればよいのである。

相手や他人の言うことを一切受け入れず、自分のしたいようにすれば良いのだ。相手を殴るのもよし、別の友達を作るのもよし。こうして無なる自分を由(よし)とする力を出せば良いのである。

と言っても中々無理だろうから、まずは「いじめられていること」を忘れるぐらいに、自分を害する環境から離れて、休むことが先決かと思う。そうして身も心も休めてから、自分の本当にしたいことをしていけばよい。もちろん「今日は一日中何もしたくない」というのもその内にはいる。或いは、自分をいじめて来る人間以外の人と関係を持ってみる、ということも良いかもしれない。

また最近は、下記のようなうたい文句もあるかと思う。

・偉人は全て、常識を外すことで大成功してきた
・在るがままになって成功する100の方法
・潜在意識を完全コントロール ~本当の幸せを掴むたった一つの方法~
・「頑張らない」ことに徹すれば、願いは全て引き寄せられる

実はこれらは全て間違っている。

一番目の間違い。

偉人達は「常識を外した」のではなく、無重力(無自由力)の為すところに由ったため、たまたまその時代の、場所の常識から外れていただけである。偉人達は、今為している自分の行為を「これは常識か? これは常識でないか?」などと逐一監視していたわけではない。それが常識かどうかなど、これっぽっちも頭になかった。

だから、これを見た人が「そうか! 偉人は常識を外していたのか! じゃあ私も常識を外して偉人になろう!」と意識した途端、それは自我の制御下に置かれてしまう。それは偉人達が歩んで来た道とは、根本から違うのである。

二番目の間違い。

まず「在るがまま」であることと「成功する」ことは何の因果関係もない。このうたい文句に目をとめた人は、そもそも成功したいからそのうたい文句が目に入ったのだということを忘れてはならない。「成功したい」と思うこと自体が、もう作為的であり、在るがままではないのだ。

それでも自我は巧妙だから「いや、私は在るがままに成功したいと思ったのだ」と主張するかもしれない。しかしもしそうならば、このうたい文句には目にとまっていないはずなのである。もし本当に「在るがままに成功したい」と思っているならば、その人の方法で、既に何かの行動を自然と起こしているはずである。

三番目の間違い。

そもそも顕在意識が潜在意識(無意識)をコントロールできると思うこと自体、あり得ないのである。それはこの肉体ひとつで、自分独りのみの力で、地球の気象を全てコントロールしようとするぐらい無理難題のことである。司法試験合格どころではない。

顕在意識はせいぜい、潜在意識(無意識)から来る力の作用を受け取ることしかできない。それを知っている顕在意識は、受け取ることしかできないのならば、せめてその恵みのみ欲しい、+の部分のみ欲しいと思い、また重力(自由力)を発生させ、願い乞うが、潜在意識(無意識)側からすれば、その人の心を全て知っているがゆえに、そのような思いがその人の為にならないことをよく知っている。

だから、潜在意識(無意識)幸せとは逆の不幸せを運んで来る。

……と、何か潜在意識(無意識)が別の存在のようにここでは書いているが、それがその人の本心である。しかし自我からすれば無の部分は見えないので、これを全力に否定する。

結論から言えば、そんなことよりも自我そのものを無重力(無自由力)の中に置けば良い。

「幸せが欲しい」とも思わず「幸せは要らない」とも思わない。そうすれば、ずっと自分が幸せの状態であったことを認識できるのだ。むしろ潜在意識(無意識)は、その幸せの中に耽溺しているが、顕在意識がむしろそれを拒んでいるがゆえに、その今ある幸せを正しく認識できないのだ。

そもそも幸せを掴もうとすること自体、幸せから自ら遠ざかっている証拠である。幸せは死合わせ(しあわせ)であり、死に向かってこの自我を合わせていくことでしか成しえない。

つまり、何度も同じ表現になるが、心の重力(自由力)を捨てて、無重力(無自由力)に任せるのだ。それはもう、自分のちっぽけな妄想の中の「幸せ」を捨てて、「死合わせ」の心で無重力(無自由力)のまま為すしかない。

今ここしかないのだ。昨日が永遠にやって来ないように、明日もまた永遠にやって来ない。それを徹底的に感じることだ。そうすればこの「今」の目の前に広がる世界の本当の輝きを知ることが出来る。この世界の、どこまでも続く無限立体の大きさを知ることができる。「現実はこんなもの」という思い込みから、一気に抜け出せるのである。

それが悟り(差取り)の一つの一面でもある。そしてこれは「早撮り」(さとり)でもある。ぐずぐずしてはいけない。永遠に変化しながら輝きを放つこの世界を「さっ!」とこの目に焼き付けて、心に焼き付けて、その光景を撮らなければならない。

そして、この光景を焼き付けたならば、言いようのない懐かしさがこみ上げて来るだろう。

しかし、もし幸運にもその世界を垣間見たとしても、通常であればおそらく、その瞬間すぐ後に「あっ! これは何だろう?」「何だこの世界は?」と頭で理解しようとするだろう。その瞬間に、その世界は閉じてしまう。

だから今この瞬間で取(撮)らなければだめなのだ。自我の重力(じゅうりょく)に引っ張られてはならない。常に無重力(むじゅうりょく)の中に意識を置くのだ。その前でもその後でもだめなのだ。いや、もうこれは前も後もない。今この瞬間のみがあるのだ。

四番目の間違い。

「頑張る」「頑張らない」は主観の問題である。「頑張らない」ことに徹することは即ち「頑張る」ことに徹することと同義である。意味がわかりにくければ、それを実行する人は「頑張らない」ことを徹底して「頑張って」いるのである。

そして、そのように為すこと自体、自ら自我の影響下に心を置いていることになる。これまでは「頑張れば」全ての願いが叶う、幸せになれる、とうたって来たが、何度頑張っても幸せになれないので、今度は「頑張らなければ」に変えただけである。

上記共通した全ての間違い。

上記は全て「○○すれば / しなければ」最後は願いが叶う、幸せになれる、という、うたい文句になっている。何かの願いを叶えたい、幸せになりたい、というのは自我の肥大化でしかなく、無意識の部分では必ず反作用が生じている。

だから、「○○する / ○○しない」「○○を思う / ○○を思わない」という、どちらかに偏るのではなく、もう無重力(無自由力)が為す所に意識を置くだけで良いのである。

そうしてそこに意識を置くことで、為すべき時は為し、為さない時には為さない、思う必要がある時は思い、思う必要のないときは思わない、という自然な状態となり、今まで自我が半ば自動的に行なっていた「どっちをすれば、またはしなければ損か得か?」、突き詰めれば「どっちを選択すれば自分は死なないか?(生き延びられるか?)」「どっちを選択すれば、自分は独りぼっちにならないか?」という、永遠に終わらないイタチごっこは目出度く終了するのである。

この時初めて、損も得も無い状態になり、生も死も無い状態になり、独りぼっちでいて独りぼっちではない状態に、自分の意識を至らせることができるのだ。

その世界とは、何も無い中に、全てが存在しているという不思議な世界である。このようにして、自我は「独りぼっちである」であることを受け入れることで、自分は「独りぼっちではない」という真理(心裏)に行き着くのである。

それは言い換えれば、自分は永遠に独りぼっちではあるが、周りの人も、動物も、植物も、何もかも全て、皆同じように永遠に「独りぼっち」であったことに気付き、そこに途方もない縁と、輝きと、愛と、至福と、その他諸々の暖かい感情が芽生えて来るのである。

むしろ、そのような言葉では到底くくることのできない、ただ「あぁああああああああ!!!!!!!!!!!」という感慨のみが激しく湧き出してくる。

そして大きく「うん!!!!!!!」と頷き、納得する。

この時初めてこの自我は、この私は、救われるのである。これが阿吽(あうん)である。

目の前の天(「あ」)と同調して「あぁああああああ!!!!!!」となり、それが再び有(「う」)と映って、无(「ん」)として呑み込むのだ。

こうして、ここに居ながらにして天を目撃し、ここは地ではなく、既に天であったことに気付くのである。否、これこそが本当の天地であり、心の中のみで思うその他の世界、たとえば天国とか前世とか死後の世界とか、そういう世界は存在していないことに、ここに至ってようやく理解することが出来るのだ。

このように天地(てんち)はまた、点(てん)なる霊(ち)であることも知るのである。つまり、天地は今ここにしか存在していないということだ。それ以外はあり得ない。こうして天(あ)と无(ん)は同じであることを知り、初めと終わりは同じであり、同じであるということは、初めもなく終わりもないということであり、その中に全ての有(う)があることに気付くのである。

こうしてあ・ん(闇)、あ・ん(安)の中にう(有)があるがゆえ、有の世界から見れば初めと終わりの世界は闇であり、無であり、またこのあ・んの世界に挟まれているがゆえに、一大安心となれる、ということもまた理解するのである。

そして「有」の一番下に「無」があるのではなく、「無」はむしろ「有」の常に外に位置していることを知る。このように「無」は「有」を超えており、超えているからこそ、この万有の世界の全てに「無」が宿っていることを理解するのだ。

だからこそ重力(自有力)ではなく、無重力(無自有力)が為す所に任せるほうが良いのである。自分に力が有ると思うのではなく、自分は無く、ただ力のみが有ると認識することである。

だからこそ、自分から出て来たスキルやアイデアは自分で所有せず、それは自分で無い所の、自分では預かり知れない所から来た力であるから、自分の物ではないのであるから、それをただ天地に対して捧げて、無料にして分かち合うほうが良いのである。

目の前の便利な機械は誰かが発明したものだが、それは誰の物でもない。また自分から出て来た何かも、自分から出て来たものではあるが、これもまた誰の物でもない。

こうすれば、誰の物でもないのに、その便利な機械は誰もが利用できるようになる。

このように認識を改めることで、物心両面とも重力(自由力)の範囲を超えて、完璧な調和が取れた現実が目の前に立ち現われて来る。こうなれば、新しい天地を皆そろって感得でき、その嬉し楽しの世界を遊べるようになるのだ。