この四ヶ年が
わたくしにどんなに楽しかったか
わたくしは毎日を
鳥の様に教室でうたって暮らした
誓って言うが
わたくしはこの仕事で
疲れを覚えたことはない

新しい風のように さわやかな星雲のように
透明に愉快な明日は来る

諸君よ  紺色した北上山地の山陵は
すみやかにその形を変じよう
野原の草はにわかに丈を倍加しよう

諸君よ 
紺色の地平線が膨らみ高まるときに
諸君はその中に没することを望むか
じつに諸君はその地平線における
あらゆる形の山岳でなければならぬ

諸君はこの時代に強いられ 率いられ
奴隷のように忍従することを望むか
むしろ諸君よ 更にあらたな正しい時代を作れ
宇宙は絶えず我らによって変化する

新たな詩人よ
風から雲から光から
新たな透明なエネルギーを得て
人と地球にとるべき形を暗示せよ

新たな時代のマルクスよ
見えない衝動から動く世界を
素晴らしく美しい構成に変えよ

諸君はこのさっそうたる
諸君の未来から吹いてくる
透明な清潔な風を感じないか

今日の歴史や地理の資料からのみ論ずれば
我々の祖先ないしは我々にいたるまで
すべての宗教や道徳はただ誤解から生じたとさえ見え
しかも科学はいまだ暗く
我々に自殺と自棄のみしか保障せぬ

誰が誰よりどうだとか
誰の仕事がどうしたとか
そんなことを言ってる暇があるのか
さぁ、我々はひとつになって……



大正14年 宮沢賢治は
この「生徒諸君に寄せる」という詩を残し
岩手県立花巻農学校の教壇を去る。29才。
この年、東北地方は凶作。


賢治は、質屋の長男として生まれ
何不自由なく育てられた。
ただ、ほとんどの友達の親が小作農であり
その日暮らしの貧しい生活から
賢治の家へ金を借りにくることを除いては。


自分の暮らしはたいそう楽なものだ。
しかしその暮らしを支えているのは
ひでりや冷夏や大雪で農作物を育てることができず
食べるものさえ手に入らない小作農の人たちだ。

幼い頃からこのことを疑問に思い
賢治は父親の仕事を嫌うようになる。

そして不運の地、東北にあって
米や野菜を作る人々を応援するために生きる決心をする。

だが、農学校の教壇に立つことは机上の理論を展開させるだけ。
これが本当に農民のために役立つことなのか。
賢治は実生活の上で農民と格闘し
大地と格闘し、社会と格闘する道を選ぶ。

土壌改良……その研究こそが自分に与えられた天命だと思うようになる。

そもそも農業とは芸術である。
大正15年。賢治は「農民芸術概論」という書を興し
そこで次のように記している。

俺たちはみな農民である。
ずいぶん忙しく仕事もつらい。
もっと明るくいきいきと生活する道を見付けたい。
我々の祖先の中にはそういう人もいただろう。
科学の実証と求道者の実験と我々の直感の一致において論じたい。
世界全体が幸福にならないうちは個人の幸福はありえない。
芸術をもってあの灰色の労働を燃やせ。
人生のための芸術は青年期にあり
芸術としての人生は老年期に完成する。
農民よ
世界に対する大いなる希望をまず起こせ
強く正しく生活せよ
苦難を避けず直進せよ


詩人としての宮沢賢治を
農民のために生きる宮沢賢治と切り離すことはできない。

彼は肥料の設計図を半年で二千枚も書き
荒地を耕し、学校に通うことができない子供たちのために
算数や音楽や理科や図画を教え
文字を読むことができない人々のために童話を書き
それを読んで聞かせた。

だから
その合間にこつこつと書きためた
宇宙や大地や空や雲や多くの生きものたちへの様々な讃歌は
やっと同人誌に発表できるだけ。

日本の詩を変えたと言われる「春と修羅」も
初版で一千部を数えたにすぎない。

「春と修羅」より「屈折率」

七つの森のこっちのひとつが
水の中よりもっと明るく
そしてたいへん大きいのに
わたくしはでこぼこ凍った道を踏み
このでこぼこの雪を踏み
向こうの縮れた亜鉛の雲へ
陰気な郵便配達のように
急がなければならないのか


「春と修羅」より「くらかけの雪」

たよりになるのは
くらかけつづきの雪ばかり
野原も林も
ぼしゃぼしゃしたり くすんだりして
少しもあてにならないので
ほんとうにそんな酵母みたいな
おぼろな吹雪ですけれど
ほのかなのぞみを送るのは
くらかけ山の雪ばかり


昭和2年 賢治 31才
この年もまた凶作 農民のために東奔西走す

昭和3年 賢治 32才
7月より9月まで一度も雨が降らず
指導していた農家の野菜が全滅する
12月 急性肺炎を起こし、寝たきりになる

昭和4年 賢治 33才
入院生活を送り、死とは何か、生きるとは何か
病院の天井を見ながら考える。

肺炎は最愛の妹をも死なせた病気である。
賢治は残り少ない人生をこの病気とともに生きることになる。


昭和6年 賢治 35才
病気を押して
トランクに肥料の見本を入れ、東北各地を転々とする。
熱は下がらない。
病は重くなるばかりだ。
賢治の詩の中で
壮絶な戦いが始まる。

「夜」と題された詩。

これで二時間
喉からの血は止まらない
おもてはもう人も歩かず
樹などしずかに息して恵む春の夜
ここは春の道場で
菩薩は億の身をも捨て
諸仏はここに涅槃しいきたまうゆえ
今夜はもうここで誰にも見られず
ひとり死んでもいいのだと
いくたび
そうも考えを決め
自分で自分に教えながら
またなまぬるく 新しい血がわくたびに
なおほのじろくわたくしはおびえる

だめでしょう
とまりません
がぶがぶわいているのですから
ゆうべから眠れず血も出つづけなものですから
そこらは青くしんしんとして
どうもまもなく死にそうです
けれどもなんていい風でしょう
もう夜明けが近いので
あんなに青空から盛り上がってわくように
きれいな風がくるんですね
もみぢの若芽と毛のような花に
秋草のような波をたて
やけあとのあるむしろも青いです
先生は医学会のお帰りか何かは知りませんが
黒いフロックコートを召して
こんなに本気に色々手当てもしていただければ
これで死んでもまずは文句がありません
血が出ているにかかはらず
こんなにのんきで苦しくないのは
魂が体を離れたのですか
ただどうも血のために
それを言えないのが残念です
先生の方から見たらずいぶん惨憺たる景色でしょうが
わたくしから見えるのは
やっぱりきれいな青空と
透き通った風ばかりです


昭和7年 賢治 36才
遺作となった童話「グスコープドリの伝記」を発表。


昭和8年 賢治 37才
あいかわらず発熱と吐血は続く。
だが、凶作におびえる農民は次々とやってきて
土壌改良や肥料の相談をもちかける。

9月18日、病を押して一人の農民の相談を受けている際
大量に吐血。

9月21日、血を吐き続けながら「妙法蓮華経」千部を友人・知人に送るよう父親に頼み、そのまま息を引き取る。

「風の又三郎」や「銀河鉄道の夜」や
「セロ弾きのゴーシュ」
農民の子供たちのためにこれらを書き
今に渡るまで子供たちを喜ばせ、勇気を与えた宮沢賢治はこうしてなくなった。
無名のままで。

その葬儀には、小作農の人々がたくさん集い、早すぎる彼の死を悔やんだ。
だが文壇からは数えるばかりであったと言う。


この年、東北地方は歴史に残る大豊作を記録した。



彼の死後
ボストンバッグから一冊の手帳が出てきた。
誰かに見せるためではなく
彼が自分のために書いた散文や詩編。
あまりにも有名なこの詩も
くじけそうになる自分を言い聞かせるために綴ったものか。


雨にも負けず
風にも負けず
雪にも夏の暑さにも負けぬ丈夫な体を持ち
欲はなく 決して怒らず
いつも静かに笑ってる
一日に玄米四合と味噌と少しの野菜を食べ
あらゆることを
自分の勘定に入れずに
良く見、良く聞きしわかり
そして忘れず
野原の松の林の陰の小さなかやぶきの小屋にいて
東に病気の子供あれば
行って看病してやり
西に疲れた母あれば
行ってその稲の束を負い
南に死にそうな人あれば
行って怖がらなくてもいいと言い
北にケンカや訴訟があれば
つまらないからやめろと言い
ひでりの時は涙を流し
寒さの夏はおろおろ歩き
みんなにデクノボーと言われ
ほめられもせず
苦にもされず
そういうものに
私はなりたい



宮沢賢治よ

宮沢賢治よ

あなたが消えてしまってから
いくたびの陽がのぼり
いくたびの陽が沈んだのだろう
俺たちもまた道を探す者である
永遠のその道を探す者である

敗れざる者よ
この夜も高い空の上
はるか銀河のかなたから
俺たちを見守ってくれ
俺たちを