◆31年前の今日、自分達の街【豊岡市】でオザキを観たいという思いで、実現したライヴ‼️
1985年11月22日 豊岡市民会館
『 尾崎豊 コンサートツアー1985 TROPIC OF GRADUATION (回帰線) 』
" コンサートでも、俺たち若い世代が作り上げていかなきゃ嘘になる "
そういうコンセプトから、彼のツアーでは尾崎と同世代のローディーやスタッフが積極的に起用されていた。
そして、オザキの地方招聘ライヴは、そのムーヴメントに賛同した若者と、KBS京都も介して近畿地方では、我が郷里である豊岡市と、舞鶴市の2ヶ所で実現した。
その署名活動をサポートしていた、京都ビブレホール、サウンドクリエーターの石本氏は後日、本のなかで語っています。
「 僕らが商売で告知を流しても、豊岡では人はあんなに集まらない。新聞の告知や大量のポスターを投入しても、市民会館はいっぱいにはなりません。
彼女たちがどんなに一生懸命に署名を集めて、それからチケットを売ったかというのは、僕らがわかります。目の色が違っていた人間じゃなきゃ出来ないんです。」
石本氏・談
当時、高校3年だった私もわずかながら、オザキ招聘ライヴの為の署名活動に参加した。こんな形で他校の方々と交流して何かをするというのが、自分らしくも無く不思議な感じがしていたが、本当に貴重な体験だった。
そして、いま思えばその頃の熱気の渦も異常だった…
私達の学年とオザキとはたった2歳差で、デビューからわずか1年半、若干19歳で、この年の夏にスタジアム【大阪球場】を超満員にした。
そのツアーの後半戦として、オザキは前出のとおり北近畿を回る奇跡の公演が実現した。
豊岡市民会館公演の前日には、鳥取でのライヴを観るため学校も昼からサボり列車で向かった。同じ列車の車内には、同じ学年の女子が何人かいた。
その鳥取公演は、伝説の大阪球場以来、自身2度目の観戦で、そこで、ある事件が起きた。
詳しくは③の写真の記事を参照して下さい。↓
その前日に観た、鳥取公演から一夜明けての、豊岡市民会館。
朝から前夜の事件のことが、気になって落ち着かなかった。
しかし、会場の市民会館に入り、席に着き、SEが終わって、客電が落ち…
大歓声がいつものように上がった…そして、オザキがグランドピアノに座って、第1音が響いた瞬間、昨夜の杞憂と共に全てが吹き飛んでいった。
間違いなく、人生最高の瞬間であり、最高の場所で観るという、奇跡の時間だった。
そして、翌月の舞鶴公演も観戦。
1985年、私が観た、オザキ10代最後の計4公演は、今、思い出しても、間違いなく彼の全盛期の時代だった。
私はその後、1987年:大阪球場→豊岡→舞鶴、1989年:東京ドーム、1991年:大阪厚生年金→神戸→大阪城ホールと、生涯で11回も観れたが…
やはり、1985年に観た全盛期のパフォーマンスを超える事は出来なかった。
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■ セットリスト 1985.11.22 @ 豊岡市民会館
卒業
彼
Driving All Night
Bow!
街の風景
ダンスホール
TEENAGE BLUE
米軍キャンプ
坂の下に見えたあの街に
Scrap Alley
存在
ハイスクールRock'n'Roll
Scrambling Rock'n'Roll
十七歳の地図
愛の消えた街
路上のルール
15の夜
◇アンコール1
Freeze Moon
I LOVE YOU
◇アンコール2
シェリー