雪組ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ | ジャンル不特定

雪組ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ


映画と比較してはいけないが、敢えての感想を書いてみます。ネタバレがあるのでご注意ください。というか、既に観劇した方向けです。



まず、明らかにアカンやろと思ったことから書く。モーの店裏でバレエ教室をやってた場面、あれはヌードルスやドミニク、パッツィー、コックアイ、マックス全員で覗き見してただけで終わっていたけど、映画の通り一人で踊るデボラをヌードルスが一人で見る場面がほしかった。宝塚ではただのイタズラでバレエ教室の女子たちを少年たちが「覗き見してるだけ」みたいに見えるけど、あの場面は少年時代にヌードルスが想いを寄せる憧れが滲み出る場面で、チャラく覗き見してサラッと流す場面ではない。アマポーラが随所にかかり、それをバックに踊る場面もない。より感情が増幅する名場面が全く削ぎ落とされている。しかしこれはアマポーラという楽曲使用権利などの問題もいろいろあるのであろうか。また、デボラの息子のデイヴィッドが青年期のマックスに激似という場面もない。楽屋を訪ねたヌードルスがデボラと話す場面で、舞台化粧を落としながら「マックスには息子がいる」という話をするデボラだが(それがデボラ自身に関係あると暗に匂わせる場面)それもない。また、ヌードルスが出所した際に、マックス一人が霊柩車で迎えに行き、後部にある棺桶から女が出てきてエロ全開になる場面は勿論ない。(宝塚では仲間全員で迎えに行く)。キャロルはマックスが捕まってしまうのを恐れてヌードルスに警察に通報することを進言するが、実はキャロルはマックスが自分に消えてほしいと思っていることを知り、キャロルが画策した罠であり、マックスへの助けではないことも宝塚ではスルーされている。ドミニクがバグジーに撃たれてヌードルスの腕の中で「ヌードルス、眠るよ、、、」と言って死んでいく名場面は、宝塚では刺殺でサラッと流れ、ドミニクのセリフがない。あの場面は人通りの少ない街で商売敵であるバグジーに偶然出くわし、スローモーションでヌードルスたちが一斉に逃げることでバグジーの脅威の程が伝わる最高にスリリングな描写であり、あの物語で最高にインパクトがある部分だが、それを表現するには少年期をもう少し深く掘り下げて、観る側に感情移入をさせる時間が必要になる。なので宝塚では無理なのだろうが非常に残念である。あのバグジーから逃げる瞬間にかかる音楽も映画史に残る程の最高な音楽なのだが、さすがにその描写はミュージカルでは無理であろうから仕方がない。ドミニクが倒れた後、パッツィーがバグジーに見つかり、バグジーがニヤリとするが、直後に背後からヌードルスが刺し殺す。その緊迫感も大切だが、舞台ではドミニク、バグジー、警官、と3連発で刺殺がパパッと流れるので、映画にある「ヌードルスがやってしまった!」と仲間が動揺する感情も薄い。マックスは「ドミニクに続いてパッツィーがやられる」と思い、意を決して飛び出す瞬間にヌードルスが先にバグジーに飛びかかるので、ハッとした顔をして見守るのだが、勿論その心理状態も舞台での描写は無理だ。デボラは宝塚では真面目な上昇志向のお嬢さんで、キャロルも悪い人ではない。デボラはもっと芯のある色濃いキャラであり、キャロルは自分の店に強盗に来たヌードルスに「わざと」レイプされるぐらいのビッチなのだがそれは全くない。と、ここまで書くと、やはり舞台は映画には圧倒的に劣ると言っているようだが、そうではない。あの難解なストーリー、心の揺らめきなど、舞台では表現が無理なところを非常に巧く削ぎ落とし、女性受けする物語に変えている。宝塚歌劇団において、主要人物がゲスであったり仲間が薄汚れていてはいけない。ワンスは、マフィアやギャング物語ではなく、いわば不良仲間の友情物語ではある。本当は登場人物にいい人はあまりいない。そこを見事に脚色し、巧みに人物像を変えて観客の心を掴む作品に仕上げているのである。個人的には、あの映画は音楽が相当良いのでタカラヅカの脚色で軽めになってしまったら台無しだと思っていたが、望海風斗の歌唱力で十分カバー出来ていると思った。したがって映画で予習はしない方が良い。別物として捉えたにしても、どうしても異なる部分が気にかかる。完全に別物とは思えなくなるので予習はせず、余計な情報なしで純粋に宝塚歌劇団の作品として観た方が感動できるのではないかと、個人的には思う。ただ、愛称呼びの人を突然本名呼びしたりもあるので、そういう部分は予習なしでは全くわからない。細かいところに拘るのであれば、観た方がいいとも言える。そしてラスト、映画では狂気とも取れるし真実が曖昧で観る側の想像力が必要であるが、宝塚ではマックスがしっかり自殺するので結末は明快である。あの映画を宝塚版にするのは不可能だと思っていたが、本当に素晴らしく変えている。勧善懲悪なアンタッチャブルみたいな映画の方が簡単なのにワンスに取り組んだのは凄いと思う。ゴッド・ファーザーは、信者が桁違いの数がいるし、諸々のことを考えてもまあ無理なので、ワンスはギリギリだったのではないか。そういう部分でも巧いと思う。映画との比較ではない部分だが、デボラ登場のシーンで愛希れいかの1789のマリーアントワネットを彷彿させる場面がある。しかし1789の時の、本当にウワーッ!となった感激があまりに強烈過ぎて、似ていることがかえって仇になった気がする。個人的にはアレは無かった方が良いと思う。ヌードルスが覗き見するアマポーラがかかる場面があり、あのハリウッド女優に成長してからのデボラが更にアマポーラで登場するならば効果絶大であったと思うが(それほどあの映画では「アマポーラの楽曲とデボラ」のイメージが強い)、それがないのだから単にハリウッドで成功したイメージを膨らませる為に使ったのだろうと推測してしまい、多少興醒めする。しかしそういった細かい部分を差し引いても、これは今の雪組だから素晴らしく仕上がったのではないか、また、その雪組だからこそ製作陣がワンスを持ってきたのではないかと考えると、凄いことである。1幕終わりの薔薇がたくさんある部屋の場面はいかにもタカラヅカ。あれは個人的には何も思わなかったが「宝塚歌劇団の演目」としては、大成功ではないか。あれのおかげで少年時代のヌードルスがデボラに対する想いをそこに凝縮して描写することが出来たのではないかと思える。


個人的にはドミニクの仇を討つヌードルスは好きだが、キャロルの謀略にかかりパッツィーとコックアイを死なせてしまったのもヌードルスである。また、宝塚では完全に省かれていたデボラへの間違った愛情があるゆえにヌードルスに対する感情は映画と宝塚では正反対のイメージである。また、マックスは禁酒法が解かれ、自分達の行く末を案じて銀行強盗を企てるが、バックにマフィアを抱え、結局ヌードルスを間接的に追われる身に追いやる。したがってマックスはそういった背景込みでヌードルスに自分の命を絶ってもらうことを願う。だが、ヌードルスは彼を殺しはしない。これは友情か、はたまた復讐なのかはわからない。映画ではラストに去るヌードルスと、それを見るマックスの間に清掃車が停まる。後部のローラーの音が響き、ヌードルスは清掃車の後ろに回るが血のりも何もない。果たしてマックスは自殺したのか、去ったのか完全に謎である。しかし、ヌードルスはそこを立ち去る時に不敵に笑みを浮かべる。その笑顔の意味は誰にもわからず、観る側の想像に委ねるラストとなっている。



4時間弱の映画を、12幕あるとはいえ半分強の時間で、暗く重い、そして性描写がゲスく、どこにもヒーローがいない故に女性にはまあほとんどウケん作品を、あんだけカッコ良くしてくれたのだから大成功であると言えると思う。全く別物として、しかし映画のストーリーを概ね忠実に再現しているのである。マフィアやギャング映画にうるさいワシでも「宝塚歌劇団の演目として」観て楽しめたので、これはそういう知識に明るくない人ならもっと楽しめる気がする、そんなことを感じた作品でした。