戦後70年目の敗戦 | メタボリックがとまらない ver.7 東京出戻り編

メタボリックがとまらない ver.7 東京出戻り編

副題 : もう遠距離の異動は無いだろう

久しぶりの更新だわさ。



朝日新聞が、慰安婦問題の元となった記事について、やっと捏造だったと認めた。
しかしながら、認めた後の立ち居振舞いはスッキリしたものではなく、外から見た私の感覚で言えば、どっち付かずのみっともない姿である。



戦後70年目に入ったが、過去の日本のマスコミの立ち居振舞いは、守旧を批判して革新を進めるものだっただろう。
戦前の日本を守旧とし、守旧だった日本を批判する事で、戦後日本は革新していくのだと、国民をリードしてきたのであるが、なぜ守旧が悪いのかと言えば、それは革新では無いからだという程度の考えしかなく、「守旧」の意味や現実を検証して来なかった。
極端な言い方をすれば、戦前の日本を守旧とする事で、守旧だった日本の責任から逃れようとしていたのだと思うし、守旧だった日本の現実から目をそらしたかったのだと思う。



物事には表裏があるし、角度を変えれば違って見える多面性もある。
戦前の日本を、ただ「守旧」として片付けられれば、全ての事は簡単になるけど、それは戦前の日本を検証した事にはならない。
日本のマスコミは、戦前の日本の悪い点を見つけ出す事には一生懸命だったけど、良かった点や普通な点を見つけ出す事には手抜きだった訳で、全般的に欠点のコマーシャルしかして来なかった。



戦前の日本の検証に失敗したマスコミは、戦後の日本に対する検証についても失敗してきた。
なぜ失敗したのかと言えば、それは「検証」という概念を忘れて続けてきたからで、欠点のコマーシャルを「検証」なのだと思い込んできたからだ。
自分達の見つけてきた欠点を、戦前の日本の真の姿なのだと思い込み、自分達が見つけようとしなかった長所については、戦前の日本が持ち得なかった物なのだと思い込み続けた結果、一面からしか物事を見ない体質となってしまった。
でもこれは、戦前から続く日本のマスコミの体質なのかも知れない。



日本のマスコミの体質とは、勝ち組に脚光や礼賛の言葉を浴びせ、負け組に罵声を浴びせる体質なのだろう。
大正時代の途中までは軍部に税金泥棒と罵声を浴びせ、昭和に入ってからは罵声を浴びせた軍部を礼賛したのは、この体質に忠実だったからであって、軍という物を検証したからではない。
この体質に忠実であったからこそ、戦争に負けた軍に対して戦後罵声を浴びせ続けてきたが、もし戦争に勝っていたなら、この体質通りに軍を礼賛したであろう。



このような体質のマスコミにとって、戦後の勝ち組とは「平和」であった。
「平和」という勝ち組に対して、検証も無く礼賛してきたのが戦後のマスコミであり、「平和」という勝ち組を批判しているように見える相手に対しては、平和を破壊する者として罵声を浴びせ続けた。
それも、ただ罵声を浴びせるだけではなく、反省の繰り返しを延々と求め続けた訳で、酷いことに「平和とは何か?」という検証すらしてこなかったのが現実である。



朝日新聞が犯したチョンボは、戦後マスコミにとっての敗戦の証拠である。
そして、朝日新聞をスケープゴートにさえすれば良いと思っているなら、それはマスコミが滅亡に至る始めの一歩である。



勝ち組礼賛体質から離れて、公正で公平な報道をする体質に変わる事を期待している。


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