「主体的にモノを考えられる選手が少ない」という話は、あらゆる指導先のチームで聞く。私自身もそう思う。いわゆる指示待ちの選手がいかに多いか。でも、おそらくそれは選手のみならず、日本社会全体の問題のように思う。
武道家の内田樹さんが、主体性についてこんな事を書いている。
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主体性とは「他の誰によっても代替されえないような存在で自分は在る」という覚知とともにしか成り立たない。そのためにはマッピングが不可欠である。そして、マッピングのための問いとは「私はどこにいるのか?」「私は何ものであるのか?」といった実定的な問いではなく、「私はどこにいないのか?」「私は何ものでないのか?」「私は何ができないのか?」という一連の否定的な問いなのである。学校教育とはほんらい、このような否定的な問いを発する訓練のための場である。自分が「何を知らず、何をできないのか」を正しく把握し、それを言葉にし、それを「得る」ことのできる機会と条件について学びをしること、それが学校教育で私たちが学ぶことのほとんどすべてである。
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「自分が知らないことを知る」ことが出来なければ、「自分がどこにいるかわからない」と。現在地がわからなければ、目的地にどうやって行けばよいのかは、わからないのだ。
内田さんの言葉を借りるならば、マッピングする事はむちゃくちゃ大切なように思う。内田さんは、マッピングについてこう書く。
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必要なのは「知識」ではなく「知性」である。「知性」というのは、簡単にいえば「マッピング」する能力である。「自分が何を知らないのか」を言うことができ、必要なデータとスキルが「どこにいって、どのような手順をふめば手に入るのか」を知っている、というのが「知性」のはたらきである。学校というのは、本来それだけを教えるべきなのである。古いたとえを使えば、「魚を食べさせる」のではなく、「魚の釣り方を教える」場所である。
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そして、知性についてにこうも書く。
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インテリジェンスとは、「おのれの不能を言語化する力」の別名であり、「礼節」と「敬意」の別名でもある。それが学校教育において習得すべき基本である、その原点に立ち戻れるならば、私たちの前にはまだ無数の可能性が開かれているように思われる。
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「おのれの不能を言語化する力」、そう自分は不能で無能であると思えるからこそ、他者に対して敬意と礼節を持って接する事ができるのだ。
つまり、選手たちに主体性がないのは、日本社会全体に知性ある大人が少ないということだ。それは、SNSで誹謗中傷しまくるだけでなく、相手の話をマウントをとって叩き潰す人が、さも偉く、そうした人がメディアでも周りでも活躍している現状を見ればわかる。
だから、我々が選手たちに主体性を求めるならば、まずは指導者自身が、己の未熟さを知り、他者に対して敬意と礼節を持って接するようにすること。それしかない、いやそれが一番の近道なのだと思う。