見下しのウロコ | rossiの世界

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心の声、心の葛藤や変化を書き残しています。




「見下し」に気付いた方が良いらしい。


気付くだけで良いらしい。


認めるだけで良いらしい。


簡単なことじゃない?


見下ししてるつもりはないけど。





1歩下がり、2歩下がり、


10歩下がり、5メートル下り、


10メートル下がって、30メートル下がって、


距離を置いて、離れて眺むと


初めて「見下し」というものが


身近に見える。





近くにあればあるほどに


当たり前の「見下し」は


原因やら、理由を連ねて


「はい。私、あの方を見下してます。」


なんて、素直に思えず、認めない。






「ミクダシテイマス」


たった8文字を認めることは


なんとも言えない不快感。


なんとも言えない敗北感。


それは無理矢理ウロコを剥がされるような


見えない痛みと見えない恐怖が


潜んでいるかのような気分になる。





ウロコの役割は、


動物の体を外部環境からの変化から守り、


攻撃から防御する。


まるで心理的要因に似ている。





見下しの始まりとなるものは


家族、人間関係、育った環境を


連想しがちだけれど、


今世自分で気付くよう


見下しのウロコを付けて


自分でプログラミングしてきたのかも。


見下しウロコを付けて生まれて


「見下し」攻略してみよと。






「見下し」は


相手をあなどり、馬鹿にして見る


相手への劣等感や、見下されることへの不快感




自分を守るための鎧のように


「見下しのウロコ」が守ってくれる。


それをガリガリ剥がすのか?


とてもじゃないけど至難の業。


「見下し」の攻略方法はどこにある?






「自分を責めず、まずは見下しを認める」


はじめの一歩はそこかららしい。


単純、自然にできたら良いのに、


なかなか素直に認められない。


なかなか自覚もしたくない。





まずは、


「見下し」しながら守った


今日まで「見下し」で生き延びて来れた


自分自身を褒めて激励しよう。


見下ししなければ、


今の自分は存在しないぐらい


ベタベタに自分を称賛しよう。





褒めて安心させたなら、


次に諭して宥めよう。


「わたしが誰かの子供であるように、

 あなたも誰かの子供なのに

 わたしはあなたを見下していました。

 ごめんなさい。

 わたしもあなたも生命を繋いでくれてありがとう

 生命をサポートしてくれてありがとう」


「わたしが誰かの親であるように、

 あなたも誰かの親なのに

 わたしはあなたを見下していました。

 ごめんなさい。

 わたしもあなたも生命を繋いでくれてありがとう

 生命をサポートしてくれてありがとう」


「わたしがあの人たちの子供であるように、

 あなたもあの人たちの子供なのに

 わたしはあなたを見下していました。

 ごめんなさい。

 わたしもあなたも生命を繋いでいてくれてありがとう

 生命をサポートしてくれてありがとう」






自分の肉体は、誰から始まり誰まで続くのか


今いる場所は、どんな地から始まりどんな形に

なっていくのか


その物質は何から作られどこへ還るのか


その植物は、動物は、、、


全ては生命を繋ぎ存在している


全ては生命を繋ぐサポートをしている


始まりも終わりもどこともなく


全ては生命共同体






見下しのウロコは


生命の尊さとサポートしている生命・物質に


誰もが囲み囲まれ生きていることを


思い出すためのプログラム。


何度も見下ししたっていい


自分を責めることはない。


どんな思いも感情も、考え、行動、できるのは


肉体があるから成せる業。






思考、感情、無くしてしまえば


人はただの生命体。


自然と同じ生命体。


誰から始まり、誰まで続くか


今の自分の肉体は、何人目に当たるのか?


思いもつかない位置にある。


「見下し」してたら思い出そう。


わたしもあなたも命を繋いだ。


わたしもあなたも命を守った。


わたしもあなたも命を繋ぐ、


わたしもあなたも生命体。






ちょっと見下し


からかい見下し


本気見下し


激情見下し


見下し認めて自由になろう


ウロコを脱いだら何があるかな。