願ってはみたものの。 | rossiの世界

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心の声、心の葛藤や変化を書き残しています。





あれが欲しい


これが欲しい


ああなりたい


こうなりたい



願ってはみたものの、、、、







あれが嫌だ


これが嫌い


ああなりたくない


こうなりたくない



願ってはみたものの、、、、







それが来るのは?


そうなるのは?


それを手に入れるのは?


思い通りになるのは?



願ってみたものの、、、


いつなんだろうか。







それが自分の目の前に現れるまで


それを自分の目で確かめるまで


そんなことを、繰り返す。


何度も何度も繰り返す。


ひとつ叶っても、また次へ


またひとつ叶っても、そのまた次へ


いつまでこれは続くのだろう、、、







おおきくなったら、なにになる?


「およめさん」「やきゅうのせんしゅ」


「ゲームつくるひと」「がっこうのせんせい」


「しゃちょうさん」「えらいひと」「ぱてぃしえ」


そうなんだ、すごいねぇ〜







卒業したらどうしたい?


会社を辞めたらどうしたい?


この先どうしたい?


その先何がしたい?


「良い会社に就職したい」「独立して稼ぎたい」


「楽して稼ぎたい」「玉の輿に乗りたい」


「結婚して幸せになりたい」「モテたい」


そうなるためには?


何故そうなりたいのか?


ちゃんと考えて言っているのかい⁉︎







大人になると


「何がしたい?」と聞いてくる割には


理由、計画、戦略、手法など、


質問攻めをした後に、ダメ出ししながら


大変な事に挑むのかと言わんばかりに


「頑張れ、応援するから」叱咤激励。


有限実行、見張り付きの努力が始まる。






願ってはみたものの、、、


大人になった今、願った時の感情を


自分自身で感じきれているのかな?


目の前のご馳走を


食べて初めて味がわかるように、


願った時の感情を


味わい尽くしているのかな?







これからどうしたい?


「良い会社に就職したい」「独立して稼ぎたい」


「楽して稼ぎたい」「玉の輿に乗りたい」


「結婚して幸せになりたい」「モテたい」


そうなんだ、すごいねぇ〜


理由も計画も予算もなぁ〜んにも要らない。


そうなってみたいと思ったこと自体が


自分自身の中での感動だから。


そうなんだ!すごいね〜


そうなんだ!いいねー







大人になるにつれて


自分自身に「いいね!」「すごいね!」と


味わうことを手抜きする。


気付けば「いいね!」「すごいね!」を


他人を介して味わおうと勘違い。


どんなに介護されたところで


口に入れないとわからない。






あれが欲しい、「そうなんだ、その感覚いいね!」


これが欲しい、「そうなんだ、その感覚いいね!」


ああなりたい、「そうなんだ、その感覚いいね!」


こうなりたい、「そうなんだ、その感覚いいね!」


あれが嫌だ、「そうなんだ、その感覚いいね!」


これが嫌い,「そうなんだ、その感覚いいね!」


ああなりたくない、「そうなんだ、その感覚いいね!」


こうなりたくない、「そうなんだ、その感覚いいね!」





欲しいのに買ってもらえなかった感覚


会いたいのに会えなかった感覚


側にいて欲しいのにいなかった感覚


欲しいもの言って怒られた感覚


好きなものを聞いてもらえなかった感覚


何も持たない子供は、


思い通りにいかないことがあると


大声で泣き叫び、泣いて泣いて


どうして思いが伝わらないのか


意味がわからず泣きじゃくる。


剥き出しの感情を差し出す他に術がない。


大人になるにつれ、そんな思いはしたくない。


その痛みに蓋をして、その喜びに蓋をして


欲しいも嫌なことも、一緒くた


何も持たずに味わうことが、


怖くて怖くてたまらない。






願ってはみたものの、、、、


叶った、叶わない。


結果を感じても意味がない。


何を願った?物、人、環境?


その人、その物、その場所に


魅了された時の感情を。


その人、その物、その場所に


幻滅した時の感覚を。


じーっとじーっと咀嚼していく。


否定も肯定もジャッジせず、


そうなんだ、その感覚いいね!と


自分の感情を認めてあげる。


自分の感覚を認めてあげる。






願ってはみたものの、、、


本当に求めていたものは


どうにもならず、どうにもできなかった


子供時代に泣きじゃくったその後の


続きの感情を求めてる。


それは「安堵」なのかも知れないね。