奥秩父は想像以上に
懐が深く、修験者の将監にとっては
生まれ故郷であると共に
修行の場所だった。
埼玉、東京、山梨、長野に
またがる広大な奥秩父は
山の峰々、季節の花の宝庫は
登山者たちを楽しませ、
甲武信ヶ岳の豊かな水源は、
日本一長い千曲川のみなもとでもある。
また、山梨に下る笛吹川
埼玉に下る荒川の
始流があった。
わらじの紐を
縛り直し、背中に下げた
法螺貝を背負い直して
歩き始めようとした
甲武信ヶ岳の途中に
それはいた。
白く光り輝くような
大鹿は、濡れたような
黒く大きな目を向け
ジッと将監を見つめていた。
立派な角を生やして
森の覇者のような佇まいの白鹿が
何かしらこちらを伺う様子は、
自分の背後に畏怖の念を
感じているように将監は感じた。
三峰の神、大きな白い狼が
守ってくださっている と
将監は思っているからだ。
静かに踵を返して
白鹿が姿を消していく
暗く深い森には、何かが在るように
将監は感じた。
頭を一つ下げて
甲武信ヶ岳の頂を目指す。
頂きからは奥秩父の全貌を
眺めることができ
原生林の稜線に
神の息吹きが見えるようだ。
埼玉の秩父の方向を拝して、
読経をあげる将監は
まるで、狼に語りかけるように
礼を言っていた。
山小屋の主人が
持たせてくれた飯は
塩だけで握った
極上のにぎり飯。
山々に捧げるようにしてから
口にすれば、甘く旨く
そして何よりも日本人であることが
ありがたかった。
いくら感謝をしても
足りないくらいに
人生を教えてもらった
山の峰々。
奥秩父を愛してやまない将監の
修行の道は、滔々と水を湛え
坂東太郎の勇名を馳せる
利根川のように
はるかに続いていた。
