「ねているときでも
 動いてくれる
 わたしの心臓さん」

自分の体を痛めて、それが回復した時などは、ちゃんと動く自分の手や足に感謝したくなります。よく自分の不摂生について来てくれたと。

「この世は
 わたしがわたしになるところ
 あなたがあなたになるところ」

単に自分らしく生きることなのか、意味深い言葉だと思います。

「かんがえてばかりいると
 日がくれちゃうよ」

優柔不断な私には、身にしみます。

「アノネ
 ひとのことじゃないんだよ
 じぶんのことだよ」

この言葉も、痛いです。苦手なことから、逃げそうになる時、そう思えるかどうかです。

「所詮にんげんのやること
 おれのやること」

精一杯やって、うまくいかない時、癒されます。
こういう言葉で、ひと区切りつけましょう。
「作家の太宰治が終戦直後の45~47年に出版した4冊の中の7作品が連合国軍総司令部(GHQ)の検閲を受け、大幅に内容を修正されていたことがわかった。検閲関連の資料を多く保存する米メリーランド大のプランゲ文庫からゲラなどが見つかった。太宰は今年で生誕100年。研究者は「戦後の太宰像を考えるうえで貴重な発見」と話している。」(asahi.comより引用)    まもなく終戦記念日ですが、終戦直後の日本はGHQに言論に関しても、検閲されていたとは驚きです。この時期は、米国の占領下にあった訳ですから、よく考えれば不思議ではないことかもしれません。左翼的な部分とも言えないようで、軍事国日本を想わせる記述に関してのようです。さて、太宰治の短編集(単行本)「ヴィヨンの妻」を、やっと、読み終えました。どの作品も、面白いのですが、社会常識を逸脱したものの考え方に正直に言って、ついていけないものを感じます。それは、社会常識を超えた、物事の本質を追求するがために、そうなってしまうのか、いずれににても、刹那的な表現力は、小説であるがゆえに許される表現の自由の境界線といえるものかもしれません。もっとも、象徴しているのが、「トカトントン」だと思います。この短編は、お勧めです。以下、亀井勝一朗氏の解説から引用します。「太宰は虚構の名人である。空想力の実に豊かな作家である。彼はつねに彼を描いた。作品のすべては告白の断片にちがいない。だが事実を事実として描いたものはおそらくただの一行もあるまい。....家庭のエゴイズムを憎悪しつつ、彼は新しい家庭の夢を追うたと云っていい。論理に反逆しながら、新しい論理を求めたと云っていい。その最大の証明は彼の抱いた罪の意識である。」

asahi.com
http://www.asahi.com/culture/update/0802/SEB200908010056.html
昨日、2年ぶりの東京出張(日帰り)でした。今回は、ANAにて、東京へ行くこととなり、事前にチケットレスの手続きを済ませて、の当日でした。(いつの間にか2次元バーコードが導入されていて、しくはっく。)福岡空港に着くと、いきなりアクシデントが発生。私が予約していた便のみ欠航です。(部材や、整備の遅れとの事。)幸い、福岡空港に着いたのが早かったので、その前の便に急遽、変更できました。(かろうじて、空いていた後方真ん中の席へ。)さて、搭乗中、自分の席を探しあてたその時、本当に偶然でしたが、席の隣に、知っている人が。しばし、話していると、客室乗務員(キャビンアテンダントとも言う。)の方から、「ここの席ですが。...」と声をかけられる。実は、私の席は、ひとつ前の列だったようで、列を間違って座っていた訳です。この後、やりとりがあって。...なんと、私が間違えて座った席は、その客室乗務員の方が座る席だったのです。(普通の一般席です。)どうも、単なる移動手段として、座られてる模様。(ただ、すわっているだけで仕事をしてません。)私は、本来の席に座りなおしました。左側、怪しくもおおきなマスクをしている方、右側、またしても、別の客室乗務員の方。...と落ち着かなくも、飛行機はかなり揺れながら、羽田に無事、到着。今回は、初めて、京急線で、目的地までいきました。途中から、都営地下鉄になるのですね。(時間があればモノレールの方が私はすきです。)さて、仕事をすませて、ばたばた、帰ります。帰りの便は、予定通り乗れました。せっかくの窓側でしたが、主翼のあたりで、外の景色が一部しかみえない。こんな時は、ヘッドホンで音楽を聴きながら寝るにかぎる。としばしの時間が過ぎ、今度は、左わき腹あたりにかすかに触ってくるものが。お隣席の女性の方が、完全に熟睡中。境界線を越えて、私の左わき腹あたりまで頭がさがってきています。いったい、どこまで、この頭は下がってくるのか、眠れません。(その方の頭を持ち上げるわけにもいかず。)...そういう状況なので、ヘッドホンからの、ANAスカイチャネルが流すエキセントリック・ロックのボリュームを上げて、気を静めます。ああ、こうして、落ち着かない、不慣れな日々は、あわただしく過ぎてゆくのでした。
私の住んでいる福岡は、ここのところ記録的な集中豪雨となりました。早く、雨が止むのを祈りつつ、レンタルDVDを静かに観てました。こんな天候にぴったりと言ってようかどうか迷いますが、アカデミー賞外国語映画賞を受賞した「おくりびと」です。「遺体を棺に納める“納棺師”という職業を通して、様々な死と向き合い人生をみつめるヒューマンドラマ。監督は「壬生義士伝」の滝田洋二郎、音楽を久石譲が担当。ひょんなことから納棺師の見習いとなった元チェリストの大悟は、妻の美香には冠婚葬祭の仕事とごまかして働いていた。日々とまどいながらも様々な死と出会い成長していく大悟と、それを見守る美香を本木雅弘と広末涼子が好演。第81回アカデミー賞」(eiga.comより引用)    死というテーマは、日常生活の中では、あまり意識することがなく、できれば避けてとおりたいものです。それはやはり、正直に言って死とは怖いものであるからでしょうか。しかし、誰もが、いつ訪れるかわからない絶対に逃れられないものです。それを真正面から向き合わせてくれるこの映画は、そのテーマの重さに負けず、観てよかったと言わせるものがある、絶賛できる出来栄えです。主演の本木雅弘さんは、この企画に関わっただけあって、納棺師の技の域に達してるかのような名演技でした。そして脇を固める山崎努さんも、熟練された演技で言うことがありません。主演の妻役には広末涼子さんです。重いテーマだけに、このキャスティングも納得。さて、食べるシーンがでてきますが、私たちは生き物の犠牲の上で生きることを享受しているという当たり前のことに気づかされます。それから、この映画には、気になるセリフは全体的にちりばめられているのですが、一つだけ。性同一性障害の子に先立たれた親の言葉が妙に胸に響きました。「当面、ああなってから、あいつの顔をま
ともに見たことがなかったです。だけんど、微笑んでる顔しているのを見て、女の子のかっこしてても、おいの子やのって。...ほんとに、ありがとうございます。」何か、親子の複雑な感情に、自分の心が重なると目から汗が、止まらない、止まらない。...高齢の両親のことも重なって。...この映画は、それぞれの肉親の機微に触れるたびに、心が微妙に動かされる、日本人でないとできない作品だと強く感じました。(久石譲氏の音楽が、素晴らしかったです。) 

eiga.com
http://eiga.com/movie/53337
当映画のオフィシャルサイト
http://www.okuribito.jp/statics/
伊達政宗、曰く「武士とは戦うこと也。」直江兼続が答える。「まずは、己の心と闘うことが肝要。そして、守る者あればこそ戦う。守る者なければ、戦ったとして意味なし。」(大河ドラマ 天地人(7/19放送分)より引用)    心に響きます。たとえ、動機付けができなくても、リスクを背負って、前に進むことを決めるとしたら、自分にとって、大切にしている人たちのために、苦手なことでも頑張らなくてはと。