全ての公職を失ってまで、民主化運動に身を投じた劉暁波氏。獄中の劉暁波氏は、ノーベル平和賞の受賞者であるにも関わらず、12月10日の授賞式の出席は叶わなかったのですが、このこと事態が中国における基本的人権が侵害されている象徴的なものになったと思います。劉暁波氏が友人に宛てた手紙より「私はもう揺るがない。あなたも中国に戻ってきたらどうか...中国は私たちの家だ。国外に逃れるより、国内の監獄の方が良心が穏やかでいられる。」(朝日新聞より引用)    私は良心が穏やかでいられる選択しているだろうか。胸が痛みます。
科学はわれわれに、何をなすべきか教えてくれるかと言う点で、トルストイのエピソードが、紹介されてました。「あるところに水車小屋で粉ひきをしている男がいました。彼は自然の恵みの中で朝から晩まで一生懸命働いていたのですが、あるとき水車のメカニズムに興味を持ちます。そして、水車が引き込まれてきた川の水によって動いていると理解すると、今度は川の研究に熱中してしまい、気がついてみれば、本来の仕事である粉をひくことを忘れてしまっていた--というものです。トルストイのテーゼは徹底的に「反科学」です。科学がわれわれが何をなすべきかというにことについて何も教えてくれないし、教えくれないばかりか、人間の行為がもともと持っていた大切な意味をどんどん奪っていくと考えました。」(姜尚中著 「悩む力」より引用)    私たちは、幸福を求めていて、その手段として科学の進歩が貢献するのだと考えるのですが、実は、科学の進歩の究極な意味は、求める幸福の回答になっていないのだと解釈できます。例えば、医学の進歩で長生きできるようになった。しかし、延命のあり方は、非常に不確かな状況にあり、それが幸福かどうかは、わからないのです。
「これは私もそうだったのでよくわかるのですが、誰もが自分の城を頑強にして、塀も高くしていれば、自分というものが立てられると思うのではないでしょうか。守れると思ってしまうのではないでしょうか。あるいは強くなれるような気がするのではないでしょうか。しかし、それは誤解で、自分の城だけ作ろうとしても、自分では立てられないのです。その理由を究極的に言えば、自我というものは他者との関係の中でしか成立しないからです。すなわち、人とのつながりの中でしか、「私」というものはありえないのです。」(姜尚中著 「悩む力」より引用)    私たちは、ネットを通じて多くの情報を手にし、それ相当の幸福感を得ているでしょうか。便利になったことは、事実です。しかし、心は、そのことによって安定していると言えるでしょうか。ここではヒントとして自我に関する本質について述べられてます。自分だけで作った城は崩壊する。ならばどうすればよいか。他者との相互承認を得ることが、自我は育てる。他者を排除した自我というものはありえないと述べれてました。しかし、相互承認というのは、実に忍耐のいるものと感じてます。
君が望むならば、僕が、今、来た道を引き返してでも、
君が求める道を、何か大事なものを落とさないようにと、
5メートルほど後ろをついていくよ。

時には、大きな声で僕の思いを、君にぶつけてみた。
でも、それを聴いてくれただけでよいのだ。

また、僕は君が指し示す方向に、軌道修正する。
そのことで、全て、うまくいくと信じてるからだ。

このようなことを、何度も、繰り返してきたんだから。
だから、なにも、心配することなんかないのだ。