時間を切り売りして、夢も希望もないなんて、ぼやいていても
明日は、またやってくる。
つまらないプライドでも、捨てたら自分ではなくなるのか?
でも、行き詰ってるならば、変わる勇気を持ちたい。
今日と明日の自分が同じとは限らないのだから。

「変わらない。ここで待ってても。
行かなくちゃ。ひとりぼっちでも。
誰かが、僕を呼ぶ声、届くかな。明日天気になれ。」(ハナレグミ 明日天気になれ)
先ほど、NHKでチャップリンの特集が放送されてました。「...さらに番組では、映画「独裁者」の台本の撮影に世界で初めて成功。ヒトラーに映画で敢然と立ち向かったチャップリンの心の内を描きだす。「国境を越え時代を超える笑い」を追い求めた喜劇王チャップリンの心の真実に迫る。」(NHKサイトより引用)  2002年、ベルリンの映画祭で今、あらためてチャップリンの「独裁者」が公開されたそうです。テロ事件や紛争が絶えない現在、この映画の持つ意味が再認識されてます。以下、この番組で気になった言葉を抜粋します。「風で帽子が飛ばされても、きっと誰かが拾ってくれるものなんだよ。(人間の優しさについて)」「I STAND ALONE(我が道を行く)」

NHKサイト
http://cgi4.nhk.or.jp/hensei/program/p.cgi?area=001&date=2006-11-13&ch=21&eid=6830
「現代の自由主義/リベラリズム(Social liberalism, New liberalism, Reform liberalism):自由を追求する思想体系のこと。現代において、個人の自由で独立した選択を実質的に保障するためには、単に政府の介入をなくし自由放任にする(いわゆる自由至上主義・新自由主義)のではなく、極度の貧富差における経済的隷属や個人の社会的自由を侵害する偏見や差別などを防ぐためには政府や(地域)社会による積極的な介入も必要であるという考えに基づく社会的公正を指向する思想である。...
自由主義の哲学的、思想的源流をさかのぼると、17世紀イギリスのジョン・ロック(1632年 - 1704年)の思想に行き着く。ロックは、人間は生来自由で可能性に充ちた生き物であり、いかなる人間にも自らの自由な意思と選択で生きることが認められていると主張した。この権利は「自然権(Natural Rights)」として個々の人間に生まれた時から備わっているものであり、誰からも妨害されることはない。人間は誰もが、個人の自由な意思に基づいて人間は自らの判断で思想も宗教も生き方や生活のスタイルも自由に選ぶことができると主張した。当時、市民の生活に強力な王権で干渉し、人々の財産までその一存で奪うことができた絶対主義政府の国家権力に対抗する思想としてロックが生み出した主張が、リベラリズムの始まりであると言われる。」(ウィキペディア(Wikipedia)より引用)  私の父は、頑固で保守的な反面、リベラルな考えを重視する人間であり、意見や考えが異なる人でも、その人を尊重する気風があります。(もう、高齢で頑固になる一方ですが。)だから、私は父を尊敬したし、リベラルという言葉の響きがとても好きなのです。

『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%99%E3%83%A9%E3%83%AB
「巨人からフリーエージェント(FA)宣言した小久保裕紀内野手(35)は9日、獲得に名乗りを上げた古巣ソフトバンクと、同球団の王貞治監督を交えて東京都内のホテルで入団交渉に臨み、「前向きに考えて決断したい」などと語り、ソフトバンクへの復帰が確実な情勢となった。」(YAHOO!スポーツより引用)  3年前に小久保選手が巨人に行かれて、どれ程、残念に思った事か。...もう一度、ホークスの優勝に向けて小久保選手を応援したいとホークスファンは皆、思っていると思います。

YAHOO!スポーツ
http://sports.yahoo.co.jp/hl?c=sports&d=20061109&a=20061109-00000158-jij-spo
「「GNP」(国民総生産)ではなくて、「GNH」という。プロダクトのPをハピネスのHに置き換えた言葉で、「国民総幸福量」と訳される◆自然を楽しみながら生きることを呼びかけた近刊の雑誌「リクウ」(中央公論新社)のなかで、解剖学者の養老孟司さんが日本に必要な知恵10項目を「養老訓」として掲げ、冒頭にGNHを挙げていた◆もとはヒマラヤ山麓(さんろく)の国、ブータンの現国王が提唱した考え方という。ブータンと聞いて、思い浮かべた文章がある。歴史学者の今枝由郎さんがブータンを旅した折の思い出をつづったエッセーである◆迷い込んだ狭い道で車が立ち往生した。向きを変えようにも、段差があって身動きがとれない。と、通行人の男性が石を拾って段差を埋め始めた。通り合わせた人がひとり、またひとり、作業に加わる◆段差がなくなるまで数分、今枝さんが助けを求めたわけではなく、人々も誰ひとり声を発しなかった。すべては黙々と始まり、終わったという。困っている人に出会ったときの、自然の流儀なのだろう」(YOMIURI ONLINEより引用)  物があふれていても、心の中が満たされていないのが日本社会の現状ではないかと思います。心が満たされないから物で満たすという悪循環です。だからと言って消費社会を反対している訳ではなく、物は手段であって、目的は人と人が、どれだけ幸せと感じられるかにあると思うのです。(自然の中で生活するのだったら、食べる事と寝る住まいのための道具だけで十分なのかも。)

YOMIURI ONLINE
http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20061107ig15.htm