普通。 | 気の向くままに。

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直感に身を委ねてみよう。

私はいわゆる「普通」と感じる領域が広い。
多分ものすごく広いと思われる。

逆を言えばストライクゾーンが
めちゃめちゃ狭いということ。

自分が「好き」「嫌い」と認定している
感情の起伏が激しいだけなのかも
しれないけど。

例えば一般的に「美味しい」と言われる
ものでも、私にとっては「普通」と
表現することはたくさんある。
私が「美味しい」と言うものだったり
「好き」だと言うものは私の「好み」の
味だからで、どれだけそれが「美味しい」
ものであれ、私にとってそれが「好み」
でなければ「普通」なのだ。だからって
「普通」=「美味しくない」「嫌い」という
わけではない。そこが勘違いされ
やすいところ。

普段、感情が振れないぶん、「これ!」と
思うと好きも嫌いも感情が大きく振れる
ということだろうと思う。

その中で「嫌い」「不快」などの感情が
振れ続けるとそこにしかフォーカスが
向かなくなる。そうなると心は
どんどん荒んでいく。

だからこそもっと丁寧に自分の
「好き」を汲み取ることが必要
なんだろうな。

好きと思っても普通だったとかあるし。
その逆もあるだろうし。

なんか「好きって?」「興味ってなんだ?」
みたいな感覚になるんですよね。

みんな普通。
可もなく不可もなく。
好きも嫌いもない。

って環境?状況?になると感情を
持ってる意味あるのか?とか思うわけです。

でも、好きとか嫌いって「この中なら」とか
ある条件下で変化するものもあるし。
消去法的な場合もあるし。

好きとか嫌いって絶対的なものでは
ないのかな?幻?私が夢を見すぎなの?

ストライクゾーンがめちゃめちゃ狭いって
書いたけど、そもそもストライクゾーン
なんて存在してない可能性もあるよね。

ストライクゾーンに入っていると
思っているそれは普通の領域から
ほんの少し出ているだけかもしれないし。

まぁ、どの程度だったら趣味と言えるか
みたいな話なのかもしれないけどね。

どの程度だったら好きと言えるか、
好きと言っても良いのか。

でも、きっともっとふわっとした
理由で好きだと思ってるし伝えてる。
そもそも理由なんてない場合もある。

それはやっぱり自分が好きと思ったからで。
心が動いたからで。それは誰でもなく
自分にしかわからなくて、移り気で良いし
自分が自分の気持ちを自覚することでしか
私の気持ちや感情は存在しないわけで。
それは嫌いと言う感情も同じ。

好きは好き、嫌いは嫌い、普通は普通。

もちろん好き寄りの普通も
嫌い寄りの普通もあるよ。

そもそも普通って何かって
ことでもあるよね。

それも人それぞれ違うよね。

私にとって普通とは
感情の起伏が少ないこと…かな。

いや、別に起伏が少なくても良いんだよ。
激しいばっかりじゃ疲れちゃうし。
でももしかしたら自分は激しいのが
好きなのかもしれない…とかさ。
自覚は大事だと思うわけ。

結局は何でも良くて、
自分の気持ちや感情を自覚して
大切にしようねってお話。