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世間一般にライカというカメラは、クラッシクカメラの王道を行くカメラである。70年以上の歴史の中で、世界中の写真家に愛され、数多くの傑作を生み出した。こうした揺ぎ無い歴史の1ページを飾ったのがロバートキャパである。
キャパとライカの出会いは偶然の結果であった。ドイツのフォト雑誌の暗室係でアルバイトをしていた頃、偶然ロシア革命の指導者トロッキーがコペンハーゲンで講演する時、このスクープを取材するカメラマンがいないという事があった。その時編集長は、手の空いている暗室係にライカを渡して取材を命じた。ロバートキャパ19歳の出来事である。ライカは1930年代にバルナックというライツの技師が35ミリの映画フィルムを使って撮影できる小型の金属カメラとして世の中に登場した。その頃報道カメラマンが使うカメラは、蛇腹式で4インチかける5インチの大型フィルムを使うスピードグラフィックという一枚一枚フィルムをホルダーで詰め替えるタイプのカメラが主流であった。まだフィルムの性能がよくない時代で、35ミリの小さなネガでは写真は荒すぎて、見れないと思われていた頃だった。当然専属のカメラマンは、大型カメラを持って出ているため、当時実験的に導入されたライカしか残っていなかったのだろう。これが幸いして、キャパは、ライカをポケットに忍び込ませて、講演を聴きにきた労働者に紛れ込み、ライカでトロッキーの写真を撮影することに成功したのである。当然他の新聞社のカメラマンなども講演の撮影をしようとやって来たが、彼らの持参して来た大型カメラには、銃が隠されているおそれがあるとして、暗殺をおそれるトロッキーより入場を拒まれたらしい。
こうした偶然のおかげで彼は、報道カメラマンの道を歩みだしたのである。しかし貧乏な青年カメラマンにライカを買う余裕もなく、ドイツからパリに渡ったキャパは、人からカメラを借りて撮影をしていた。
そのパリ時代に毎日新聞社のパリ特班員である城戸氏と出会うことになる。城戸氏は、ドイツからライカを買って持っていたが、惜しげもなくキャパに貸し与え、あげくのはてには、そのカメラで撮影したパリの写真を毎日新聞で買取り、日本で使うことまでしてくれたのである。20代の貧困のどん底にいたキャパを救った日本人とライカのおかげで、キャパは、スペイン内戦での歴史的写真といわれる、倒れ行く瞬間の兵士を撮影し、報道写真家の地位を確立したのである。
キャパとライカの出会いは、彼を報道写真家として歩みだすきっかけを生み出し、日本人との出会いも演出してくれた。ライカというカメラは、人の出会いや結びつける力を持つ不思議なカメラとして現在でも愛されている。
ところで、城戸氏から借りたライカはどうなったのだろうか。ロバートキャパの著書「ちょっとピンぼけ」のあとがきに当時毎日新聞の特派員をしていた井上氏のキャパへの回想を述べた箇所に、キャパは、フランスのメーデーの取材で友達から借りたライカを壊したと大騒ぎしていたと書いている。それが城戸氏のカメラかどうか定かではないが、城戸氏がキャパに貸したライカはついに帰ってくることはなかったらしい。