MORNING STAR 『少女と鉄の鬼』1 
プロローグ 夕暮れに二人だけ 聖暦399年5月

 

「トシロウ、あたいのことが好きだろ」

 気がつくと薄暗がりの室内には彼女とぼくしかいなかった。
 
 小窓から差し込む緩やかな黄昏近い明かりに比して、より闇を強く感じる壁にもたれかかったはずの少女の大きな目がいつの間にか目の前に迫っており、猫のそれのように光って見えた。
 心臓に釘を打ち込まれたかのような、ドキッとした感覚を与える深い緑の泉にも似た神秘的な瞳だ。
 
 美少女だと言っていい。
 いや、そんな言い方は間違っている。
 彼女、エメーラ・ミダスは化粧っ気がなくとも紅い唇は肉感的にぷっくりとしているし、小柄ながら均整の取れた体躯に乗る頭は小さく、大きな翡翠色の目と小振りでツンとした鼻梁とが理想的な位置を描いていた。
 若さゆえの未完成さは、大輪の薔薇のように咲き誇る前の蕾の可憐な印象を覚えさせられる。
 
 一人でやるには荷が重い作業に集中していたため、時が経つのも忘れていたようだ。
 
「好きだよ」
 
 そう言ってあげたかったが、現実として出てきたのは別な言葉だった。
 
「そういうことはもう少し大人になってから言えよ」
 
 あまりにも近すぎたので、右手で彼女をゆっくりとつき押した。
 そして、細く華奢なのに柔らかな肩に触れた手のひらを、少しのためらいとともに離し引き絞った。
 
 彼女は“あのひと”とは違うし、師匠とも違うのだ。
 
 まだ若い彼女はまた庇護者を失った。これからはぼくが守らねばならないのだ。
 
「夕食を作らないとね。今日はぼくが作る。これからはぼくら二人だけなんだから」
 
 少しばかり拗ねたような表情をして、小悪魔のような微かな笑みを浮かべた後、彼女は軽やかな身のこなしで後ろに下がり、ぼくに背を向けた。
 何を考えているのかはわからない。
 つい先日親代わりとなったばかりだったぼくの師匠を失った喪失感を彼女は幾ばくでも感じているのだろうか。
 
「食べてあげるわ。あたいの口にあうものを作りなさいよ!」

 ここに来たときの怯えた子猫のような声ではなく、女王様気取りの猫のような声だかな調子でそう言って、この薄暗い工房の傍らに鎮座する黒々とした巨人の胸の中へと滑り込む。
 操柩と呼ばれる彼女の居場所。
 そう、この娘はそこからこの鉄の鬼を駆る。
 鉄騎と呼ばれる鉄の巨人は戦場においては万の兵に匹敵すると言われる。
 
 その千切れた前腕の筋肉を修復する手を止め、代替体液に汚れた指の爪まで濡れた布でよく拭き取り、傍らにおいてあった水差しから直接水を喉へと流し込む。
 室内のランタンに火をつけ一息つくと、部屋が明るくなるとともに張り詰めていた胸の内が少し軽くなっていることを感じた。
 
 彼女はわざとあんなことを言ったのだろうか。
 
 いや、そうなのだろう。
 
 その前にかけられていた彼女からの声がけは、もしかしたらぼくには聞こえていなかったのかもしれない。
 
 師匠の形見にもらって首から下げている猫目金緑石のペンダントを握りしめ、彼女に不安しか与えていなかった自分に少しばかり腹を立てた。
 
 生と死はすでに日常だ。
 
 周辺の治安が悪化している目下、破損した鉄騎の修理は急がねばならないが、今は死を紡ぐそれへ闇雲に心血を注ぐよりも、彼女と自分との新しい生活を確立していくことこそが急務なのだろう。
 
 工房の外に出て深呼吸すると、庭で育っている紫色のベリーの実を摘み、同じく庭の小さな畑で育てている蕾のような葉野菜を収穫してから、新鮮な水が常に満たされている水盆で洗う。
 葉野菜は部屋に戻って塩とオリーブオイルを手早くふりかけ、棚の柑橘を切って絞った。
 工房の火床の入口側にかけておいた鉄棚のじゃがいもを取り出し、塩を振り乾燥させていた厚切りの猪肉を鉄串にさしてから、火床の炎をフイゴで焚き付けて焼く。
 じっくりと遠火で火を入れると旨味が増すのだが、時間がないので強火で串を回して肉にまんべんなく火が通るよう火を入れる。
 これもまた美味しいものだ。
 表面がカリッと焼かれ、滴り落ちる肉汁を見て、頃合い良いと仕上げに刻んだ山椒の若葉のはいるスパイスを振りかける。
 火床の遠火でじっくりと水分を抜き甘みを増したじゃがいもは塩だけでも十二分に美味い。
 肉の付け合せに皿に乗せ、冷暗室に保存しておいた白く粉をはたいたパンと近隣からもらったばかりのアーモンドミルクをテーブルに用意した。
 
 すると、いつの間にか彼女もテーブルについているではないか。
 棚の引き出しからナイフとフォークを持ってきたようだ。
 
 天に坐す万物の父に祈りを捧げて、ぼくらは二人だけの食事を始めた。
 
 彼女は熱々の猪肉にかぶりつくと、そうそうにぺろりとそれをたいらげてしまう。
 ナイフとフォークを持っていたはずだけど、鉄串から直接肉にかぶりつき、指でその位置をずらすものだから、指に猪の脂がついてしまう。
 
 ぼくの視線に気がついてなお、ぺろりと可愛らしい舌で指についた脂を舐めた。
 
「おいし! ここに来てから思ってたけど、トシロウの作る料理って、なんだかわからないけど美味しいよね」
 
 彼女はそう言って微笑んだ。
 
 来たときは師匠と比べていたためか、まだ子供だとしか思っていなかったが、その言葉にホッとするともに、彼女が気遣いをキチンとする女の子だと気が付かされた。
 
「仕事してるときの悪魔みたいな被り物の仮面外すと、男なのに女のように綺麗な顔してるし、耳は長いし……」
 
 葉野菜をちょっと見つめてから口に入れると、その視線がぼくを捉えた。
 
「ほんと、あんた、何者!?」